双・恋 ~3(下)~





 魔術が使えたからといって幸せになれるとは限らない。

「お姉様が本当に羨ましいです」

「無職なのに?」

 ハルには聞こえないくらい小さな声で言う。

「え?」

「いや、なんでもない。それより、ご飯を食べるときくらい離れてくれない?」

「ああ、はい」

 ようやく離れたと思っても、ハルは私の隣に座る。

 どうしてこんなに懐かれちゃったのか、本当に不思議で堪らない。周囲を見れば、もうみんな食事は終わっているらしく、食器は私たちの分しか置かれていなかった。

「父たちは?」

「父上は仕事です。母上は何とかさんのお茶会に行くためにドレスを新調しに出掛けました。一番上の兄上と姉上は子供を連れて帰られました、これは昨日のことですけれど。あともう二人の兄上たちはお仕事です。姉上は自室にいらっしゃると思います。あと、不肖の弟はもう学園に行きました。何でも調べ物があるとか、どうとかで」

 歩くスケジュール管理帳だな。

 みんなの予定をくまなく説明してくれたハルに拍手を送りたいところだ。たぶん伸び悩んでいる魔術や勉学に力を注ぐのではなく、こういったことを伸ばしていったほうがこの子のためになるんじゃないかと思う。本人が望んでいないのならば仕方がないけれど。

 出された朝食を口に運びながら、さらに、ハルの今日の予定を頭に入れておく。

「今日は午後までみっちり授業です。16時には帰ってこられると思うので、魔術の訓練はその後にお願いします」

「え、今日も帰ってから訓練するの?」

「はい。一回でも休んでしまったらダメだって先生も言っていました」

「でもたまには息抜きとか」

「息抜きは学園でします。だから、お姉様、よろしくお願いします」

 待て待て。学園ではちゃんと勉強を教わってこいよ。

 当然の突っ込みさえ、このお頭の足りない妹には無駄な助言でしかないのだろう。

 私は小さなため息をこぼし続けた。

「お姉様、ため息は幸せを逃しますよ?」

 ええ、もう充分、逃げているわ。

 苦笑いをしながら不意に視線を外へ移すと小さい猫が手招きをして手摺りの縁に座っていた。

 ガタ、と音を立てて窓を開けると手乗り猫は、なー、と甘えた声で鳴いた。

「え、もう帰ってきたの?」

「なー」

「早いな。もしかして返事、物凄い勢いで待ってたってこと?」

 猫は首に巻かれている手紙を取るように催促してくる。

「はいはい」

 私は素直に従って、手紙を読み解こうとしたが、ここにはペンがない。それにハルもいることだし、一旦、部屋に戻ったほうがよさそうだ。

「ハル。私、急用ができたから部屋に戻るわ。今日もお勉強頑張ってきなさい」

「え。お姉様!」

「ああ、はいはい。頑張っていってらっしゃい」

 泣きそうな声をしたハルを慰めるのは簡単なことだ。

 その額に一つだけ唇を落としてあげるとすぐに元気になる。家族としての、挨拶である。

 私は急いで部屋へ戻った。後から付いてくる手乗り猫のことなど気にも留めず、部屋の扉を閉めたときはさすがに猫も怒ったのか、遠慮することなく扉に爪を立てやがった。

「ああ、ごめん」

 急いで開けて、下のほうへ視線をずらすとメイドたちが叫び声をあげそうな感じに爪跡がついていた。これはさすがに可哀想なので魔術で直してようやく落ち着く。

 テーブルに手紙を置き、羽ペンでサインをすると浮かび上がってきたのはやはりというべきか、簡潔な内容である。

 わかった。当日はアツナを連れて来ることを忘れるなよ。

 もう、名前さえ省かれていた。

 これは手紙じゃない。メモだ。メモ書きだ!

 返事と、文句を言うために白紙を取り出しペンを走らせる。

 ジェイへ。

 ちょっと、失礼じゃない? 何、このメモ! こんなことなら別に、

 それから、ふと、書いている手を止めてしまった。

 私、何をやっているのだろう。馬鹿みたいだ。別に恋人同士の手紙のやり取りではないのだからこの程度のメモ書きくらいで丁度良いはずなのに。それに、曲がりなりにも彼は上位の人間だ。

 書いていた手紙にそっと息を吹きかけると文字は全て飛んで消えた。

 了解しました。ただ、アツナにはこれから連絡をつけるので変更になった場合はまた手紙を書きます。

 これでいい。

 今度はストロベリーの香りさえつけることなく、私は猫に手紙を託した。

「よろしくね」

 わかったのか、わかっていないのか。なー、と鳴いた動物は急いで主人の下へ駆けて行った。

 その小さな生き物を見送り、私は町へと繰り出す。時刻は10時前。今から向かえば昼前には学校には着くはずだ。問題ない。

 いつもの鞄を手にして、私は出掛けることにした。

「お嬢様。どちらへお出かけですか」

 門扉で尋ねたのは執事。彼がここにいるということはハルも出掛けた証である。

「アツナのところに」

「お帰りは?」

「ごめん、わからない。適当にご飯もしてくるから、大丈夫」

「わかりました。お気をつけて行ってらっしゃいませ」

「うん、行ってきます」

 彼が私に馬車の必要性を聞かないのは当たり前のことだ。

 アツナの職場に行くのに馬車を使ったら怒られる、もちろん彼女に。それにあそこの子供たちは変に、好奇心が旺盛だ。前に一度馬で行ったら、馬が怖がったのを覚えている。

 思い出し笑いもそこそこに歩いているとお店のおじさんが声をかけてくる。

「アキちゃん。今日も元気だね。アツナさんのところに行くのかい?」

「うん、そう。おじさんも…――は、元気なさそうだね」

「わかるかい?」

「そりゃ」

 それだけ盛大に足に包帯を巻いていれば気がつかないほうがどうかしている。

「……母ちゃんと喧嘩しちまってね」

「そう。仲が良いのね」

 照れ笑いをしているおじさんに苦笑が漏れてしまう。ここの夫婦は喧嘩が絶えないけれど本当に仲が良いのだ。おそらく怪我をさせてしまった奥さんのほうは今頃居た堪れない気持ちでいっぱいだろう。

 捲れかかっている包帯を指差しながら言う。

「自分で巻いたの?」

「わかるかい?」

 まあね。

 私はしゃがみこんで包帯をはずし始めた。

「アキちゃん、スカートが!」

 うん、地面とお友達になってるわね。でも別に気にすることじゃない。

「……なんだ、見た目ほど悪くないじゃん。大げさにしすぎると奥さんに嫌われるよ」

 包帯を全て取り払った私が言うとおじさんは慌てて自分の足を見た。

 そこには確かにあったはずの傷跡がうっすらと瘡蓋で残っているだけ。包帯で蒸れていたせいなのか痒みも伴っていたが、全快とはいかないがほとんど治りかけていた。

「あれ? おかしいな、さっきまでは確かにぐじょぐじょしてたんだけどな」

 その表現は間違っていない。

 実際、私が見たときもすごかったけれど、ね? 後ろで隠れてこちらを気にしている奥さんを見れば、手を貸してあげたくなるでしょ。

 回復魔術を使ったわけではなく、回復補助魔術を使ったのだ。所謂、自然治癒力の強化だからすぐに完治するわけではない。

「ガーゼが血を吸い取ってくれたから傷跡がはっきりわかるようになったんじゃない? ちゃんと洗ってガーゼつけた?」

「ああ……そう言われると、怪しいな」

「だろうね」

 取り外した包帯を手渡し、私は先を急ぐからと別れた。

 たぶんあの白い布はもう必要ない。奥さんの顔も苦痛に歪むことはないだろう。仲悪くないのだから、放っておいてもすぐに仲直りできることもわかりきっている。

 私は後ろで砂埃塗れになっているスカートを気にしながら足を進めた。

「アキちゃん、お出掛けかい?」

「アキちゃん。アツナさんのところに行くのかい?」

 この界隈でも私って超有名人。未だに無職であるせいかもしれない。

 みんな気前もよく、働き者だし、優しい。許可さえでれば私を雇ってくれるだろうけれど、今の私には彼らの声に答える力がないのだ。絶対に迷惑がかかることはわかりきっていた。だから現状に甘んじるしかない。

 歩みを進めていけばプレジト家の領内に入っている。

 そしてプレジト家領の人たちも私を知っているのだ。

「おお、アキちゃん。久しぶりだな」

「お嬢様に会いに来たのか?」

「相変わらずの暇人か」

 みんなずけずけと言いたい放題だけど、彼らのことを嫌いではない私は気にすることもなく笑って頷くだけである。

「アツナ、もう学校でしょ?」

「ああ」

 ここの人たちも優しい。働かない私を侮蔑したりすることはない。

 私は簡単な礼だけを口にして、アツナがいる学校へと向かった。

 自分たちが卒業した学園とは似ても似つかないほど小さい学校は貰い手のつかなかった空き家をプレジト家が買い取って、幼い子供たちを教えている。無論、無償ではないが、それでも破格の安さで有名だ。

 いや――安さで有名ではなく、丁寧な教え方と子供たちへの対応で名が知れ渡っているのだ。少なくともここへ通っている生徒は誰一人として嫌々来ている者はいない。

 私は学園、好きじゃなかった――嫌いでもなかったけれど。

 門の前で学校を見ていると私に気がついた生徒たちが声を上げて迎え入れてくれた。