「ことばが好きだから」という理由で
「◯◯語、ちょっとわかるよ」
と言うと、納得してもらえないことが多い。
どうやらその言葉が話せる理由、
またはその言葉を学ぶ理由の
『納得できる明確な答え』が欲しいらしい。
理由なんてなくても、
理由なんてなくても、
好きなんだから
知りたいんだからいいじゃない!
と思うのだけれど。
どうも納得しづらいらしい。
と思うのだけれど。
どうも納得しづらいらしい。
別に、納得してもらわなくてもいいのだけどね、本当は。
相手が納得するための理由をわざわざ作り出すのもおかしいし。
流行りのアドラー心理学的に見れば、まさにこう。
他者に介入させる必要はないことだから。
相手が納得するための理由をわざわざ作り出すのもおかしいし。
流行りのアドラー心理学的に見れば、まさにこう。
他者に介入させる必要はないことだから。
私がいいと思っていれば、それでいいのだ
でも正直、メンドクサイのも事実。
「何で勉強してるの?」
「ことばが好きだから」
(もう、《文法からのいわゆるお勉強》はしていないと言うのすらメンドクサイ)
「………(納得いかない顔)」
というやりとりが。
だからついつい適当なことを言ってしまう。
「どうしてイタリア語を話したいの?」
「イタリア料理が好きだから」
これだと納得するっていうのもおかしいけどね(笑)
たぶん、相手は
イタリア料理が好き
↓
イタリアをもっと知りたくなった
↓
イタリア語を学ぼう
と勝手に自動変換してくれている。
ちなみに、イタリア料理は本当に好きだけど。
私はイタリア料理が好きだから、イタリア語を話したいわけではない。
「どうしてイタリア語を話したいの?」
「夏にイタリアに旅行に行くから」
これもね、すごく納得しやすいらしい。
ああ、必要だよね〜って。
わかるけど、やっぱり変なの。
でもきっと、旅行が決まっていたら私はこの理由を使っちゃう。
だってメンドクサイんだもん。
だから、友だちのいる国の言語だったら、思いっきり利用させてもらっている。
「どうしてスペイン語を話したいの?」
「メキシコに友だちがいるんだよね〜」
正直、私は何語でもいい。
何語だって、話したいのだ。
言葉があるところに人はいる。
話せれば、その人と通じ合える。
世界が広がる。
言葉が壁になってしまうのはもったいない。
言葉が充分に話せなくても、人と人は繋がれる。
けれど、言葉を味方につけたら、もっともっと深い会話ができるじゃない。
低くなった壁が、もっと低くなるじゃない。
話したい理由なんて、本当はそれだけで充分じゃない?