オーストラリアに滞在していたとき、ある友人が日本語教師養成講座に通っていた。
今から12~3年前のこと。
私は初めて、『日本語教師』と『直接法』というものの存在を知った。
外国語の習得法にはいろいろある。
教授法もまたしかり。
日本語教師養成講座で学ぶのはこの『直接法』が主だという。
『直接法』:日本語を日本語だけで教える方法
昔の私は
「その言語をまったく知らないのにその言語で教えるなんて、どうするのさー?」
なんて思っていた。
でも今はちょっと違う。
私自身、
英語を英語環境で身につける
その言語はその言語で身につける
という体験を持っている。
そのおかげで、間に母語を挟むよりもむしろ自然…というか、楽だと思っている。
その言語しか持っていない感覚というものもあるしね。
「この言葉、日本語にはないよー!」
というものを無理に訳そうとするとおかしくなる。
方言と同じだ。
北海道弁の「吾妻しくない」は
あくまでも「吾妻しくない」なのであり
「何となく落ち着かない」とはやっぱりどこか違う。
それと一緒。
(『環境で生まれた言葉を訳すのは難しい』参照)
だから『その言語をその言語で学ぶ』のには、私は賛成。
ただその感覚に入り込めないうちは、無意識に母国語の中に当てはまるものを探してしまったりするのだけれど。
理想を言えば、その言語環境に生活ごとどっぷり浸かってしまえば早い。
直接法よりももっとずっと、直接的。
小さな子がその環境にぽーんと放り込まれて対応しているうちに、自然と現地の言葉を身につけていくことをイメージすれば伝わるだろうか。
でもこれは、年齢・環境・状況・立場・性格によって難しさも伴う。
そこで『直接法』なわけだけれど。
これもまた、やっぱり少し難しさを伴うと私は思う。
どういうことか。
『直接法』の根底にあるのは、あくまで『学習』。
『自然習得』ではない。
つまり自然に飛び交う言語環境の中に入るわけではないということ。
あくまで人間が分析し作られた環境の中でその言語に触れていくということだ。
だから自然に感覚を掴んでいくというよりは、与えられた感覚を人工的に作り上げていく感じ。
伝わるかな?
そこで私はあることにひっかかり、こんな会話を展開した。
『感情表現とことばの成り立ち』につづく