オーストラリアの友人に、日本の都市伝説のような話をしたことがある。
牛肉100%を謳っている某ファーストフードチェーンの肉が実は食用ミ○ズだという話。
これは今から10数年前、私のまわりでまことしやかにささやかれ、
たびたび耳にしていた話だった。
だからって本気で信じていたわけではない。
でもそう言われる何かがあるのでは?という猜疑心を持っていたことも確かだった。
「オーストラリアではそういうの聞かないの?
日本では、これって結構有名な話だよ」
"This is a famous story in Japan."
そう言ったとき、彼女が言った。
「それは『story』?それとも『Truth』?」
その一言で、私は目から鱗が落ちた。
「story」って、あくまで「物語」なんだ…!
日本で使われている『話』という言葉の感覚とは別のもの。
当時、私はそういう風には認識していなかった。
それが事実であろうとなかろうと、日本では「有名な話だよ」と聞かされた時点で
「そうなんだ…」で終わってしまうことが多々ある。
「えー…何それ…」と思い、自分が信じる信じないは別として
この “『話』という言葉そのもの” が表しているものが
架空のものなのか事実なのかとは考えもしないのだ。
上記の例は極端かもしれないけれど、日本ではたびたびこの表現を耳にする。
「みんなが知ってる話だよ」
「けっこう有名な話だよ」
でもその「有名な話」も、本当にそれが事実だとは限らないのだ。
もしかしたら誰かの作り話かもしれないし、
事実を曲げて語られた話が事実のように語られているだけなのかもしれない。
でもそれを確かめる前に、日本ではそれが「有名な話」として
尾ひれをつけて広まっていく。
こんな話をしていた時、イタリア在住の友人が
『日本では事実と意見が区別されずに使われているって言うよね』
と話してくれた。
それはとても納得のコトバ。
そしてその後に続いた彼女の言葉が印象的だった。
『イタリア語だと、事実と事実ではないことは文法的に完全に区別されてるよ』
おもしろい。
これってちょっと、
「みんなそう言ってる」
「みんなそう思ってる」
という、自分に責任を持たずに逃げられる要素を含んだ便利な言葉と質が似ている気がする。