昔、外国人はみんな英語が話せると思っていた。
特に白人さんは。
『外国人=英語』という思い込みに毒されていた。
フランス語、スペイン語、イタリア語、中国語、韓国語、ロシア語…
知っている言語名はたくさんある。
それだけでなく、その国のその土地でしか話されていない言語も
これまたたくさんあるのだ。
世界にはたくさんの言語が溢れている。
しかも自分はそれを知っている。
それなのに、何の疑問も抱かずに『外国人=英語』だと思っていたなんて
何ともオソロシイ思い込みだ。
でもおそらく、日本人にこういう思考の人は多い。
ということは、そう思わされる環境があるということだ。
だから海外に行ったとき、自分はがんばって英語を話そうとするのだから
海外から日本に来た人は、日本語を話すべきだと思っていた。
「私たちはあなたたちの国でそっちの言葉に合わせるんだから
日本に来たのならこっちに合わせてよ!
英語が一番エライ言語じゃないのよ!!」
なんて。
確かに英語圏の人は言葉が通じる地が多い。
世界の共通言語として使われているのも英語だということは否めない。
だから英語圏の人の中に、相手も英語を話すのは当然だと
思っている人がいることも否定できない。
でも世界は広い。
英語が話せない、英語が母国語ではない人はたくさんいる。
それをひとまとめに 『日本人以外=英語』 だと思っていたなんて…
ああ、無知って恥ずかしい…
あるドイツの知人が言っていた。
「外国人だからって英語だと思い込んで話しかけてこないでほしい。
僕はドイツ人。
日本語で話しかけてもらった方がずっと嬉しい!
ここは日本でしょ?!」
彼はおそらく英語も話せる。
そんな彼でも思うのだ。
それは私たちが海外で 「中国人?韓国人?」 と聞かれて
「違ーう!日本人です!!」
と自分のアイデンティティを主張するのと似ているのかもしれない。
そんなわけで、最近は『外国人=英語』という認識は消えている。
むしろ、日本の外にも英語に苦労している人たちがたくさんいることを知り
英語ひとつに偏った外国語教育に首をかしげたくなったりもする。
まぁ確かに、共通語としての英語が話せれば便利なのだけれども。
そんな中、カタコト英語の人たちと向き合うときに
自分の中でおもしろい現象が起こることに気がついた。
つられてカタコトになるのだ。
これは、キレイな文章で言ってしまうと通じないという体験と
相手と同じ立ち位置で会話するというベースにのっとっているためだ。
だからそういうとき、私はずいぶんおかしな英語を発している。
でも、きちんと文法にのっとった“正しい英語”を言うより
そういう言い方をした方が通じるんだな~…
これは、もし日本語(母国語)だったら…
と考えてみるとわかりやすいかもしれない。
たとえば日本語を勉強している外国人や、
小さな子どもに向き合ったときの気持ち。
そんなとき自分が使う日本語は、わかりやすく短いセンテンス。
漢語ではなく和語を使うし、
日本語学習者相手なら、相手の学習進捗度に合わせて
多少おかしな言い回しになろうとも、伝わることを優先する。
それを英語でやるようなものだから。
英語ネイティブじゃない私の英語が相当おかしなものになるのも頷ける。
そういえば「だいぶ耳が英語の音に慣れてきた…」という夫が言っていた。
「英語が堪能な人と話すと、その速度と量に圧倒される。
そして自分も正しい英語を使わなきゃいけないと思って緊張する」
そして彼の口は重くなるのだ。
かたやカタコトのゲストのとき、夫はとても生き生きとする。
お互い単語を並べてカタコトで交わす会話。
その方が、彼らはずっと通じているし楽しそうなのだ。
おもしろい。
使えるコトバも、流暢さや語彙量が相手によって変化する。
それはコトバが人と人とを繋ぐものだから。
人があってこその“コトバ”だ。
本当に、おもしろい。