ロシアのAさん(44歳 男性)がやってきた。
Aさんは日本語を学び始めてまだ2ヶ月。
1ヶ月ほど少し教えてもらい、その後1ヶ月は自分で勉強していたという。
札幌で5日間の日本語研修を経て我家で1泊2日のホームステイ。
きっとドキドキだったことだろう。
Aさんとのコミュニケーションは、驚くほどスムーズだった。
お互いが日本語とロシア語を混ぜて話し、
困ったときは英語が登場。
こういうとき、英語は便利なようで実は邪魔だったりもする。
単語説明で英語を使う分には気にならないのだけれど
すべての表現・説明を英語にしてしまうと
私たちの間に流れている日本語とロシア語のあたたかい空気が乱されるのだ。
これは過去に、韓国のDくんを受け入れて
韓国語と日本語を交えて楽しんでいるときにも感じたことだ。
(よかったらその時の記事 『英語が邪魔?!』 を^^)
まったくもって、母国語が重なり合う現象っておもしろい。
さて日本語を学び始めてたった2ヶ月のAさんだが
日本語への興味の深さはとてつもない。
「今の、日本語は?」と聞いてはメモ。
私も「ロシア語では?」なんて似たようなことをやっては声に出していた。
お互い、どんどんどんどんコトバが増えていく。
「頭が爆発しそうだ…」 と言うAさん。
そうだろうな~ わかるな~
私もつい最近、ガボンの2人とのフランス語のやりとりで
同じ体験をしたばかりだ。
(この体験は、また後日♪)
Aさんはメモする際、必ずロシア語での音声表記と共に
ひらがなを書いていた。
ここで、私は日本語の難しさと共に
ロシア語との共通点に遭遇した。
たとえば 『有名』 という言葉。
聞こえたとおりにメモするAさんがまず書いたのは 『ゆめ』
「ゆ…め?」
「ゆ・う・め・い」
正しい音を伝える私。
でも私たちは 『有名』 と口にする際、一音一音はっきりと発音はしていない。
おそらくその音は 『ゆーめー』 と聞こえている。
だからAさんの書く 『ゆめ』 は、決しておかしなことではないのだ。
これは、子どもが母国語を習得していくときに経ていく過程と同じだ。
そして同時に、私にとってのロシア語でもそれと同じことが起きていた。
たとえば 『重い』 というロシア語。
さらっと言ってくれた音を大きな波で捉えて書こうとすると
『ティジュラー』
でも彼がはっきり細かく言ってくれたのを聞いて自分の目安として書くとこうなるのだ。
『ティァジュ(ル)ォー』
(キリル文字で書かず、あくまで私の目安の音としてのカタカナ表記なので
このカタカナ表記に関して違うとか合ってるとかは置いておいてね。)
ふーん… なるほど。
この細かいのの集まりが大きなものとして固まって
ナチュラルな音になるとこう聞こえるのか。
この、“塊で聞いたときと細分化して聞いたときの音の違い”については
夫もまったく同じことを感じたようだった。
コトバを大きな波・塊として捉えることができた上で
分解したときの細部が聞ける。
これは私にとって、すごくおもしろい体験だった。
「こう聞こえた」という大きな波としてのコトバを
否定するのはおかしいし自然じゃない。
大きな波と同時に、細部の存在を知れるから
ロシア語らしさを失わずにすむ。
そして口にするから、ロシア人のAさんにとって
「違う」とはならないのだ。
彼にとっての日本語と私たち夫婦にとってのロシア語。
この聞こえ方、実は細部は異なっているから文字表記だとこうなる…
というものがまったく同じ体験となって、2つの言語を結びつけた。
オモシロイところに共通性を見つけた!