12年ほど前、ロンドンの語学学校に2週間ほど通った。
初めて1人で海外へ行ったあの時。
その緊張といったら、ハンパなかった。
当然のことのように英語なんてまったく話せず
そもそもアルファベットのに触れるのなんて何年ぶりだっけ?
という状態だった私。
何とかもぐりこめたクラスは、下から2番目。
何人かの日本人と、ヨーロッパ勢で構成されたクラスだった。
イギリスは日本同様島国とはいえヨーロッパ。
おまけに世界共通語と認識されている英語の国。
そんなわけで、学校にはヨーロッパ各地からの学生が。
それまで世界各国の人が混在する場所にいたことがなかった私には
すべてが新しかった。
そんな環境での短いロンドン生活。
海外に行くと、それまで訪れたことのない地域出身の人であっても
日本人というだけで連帯感が生まれる。
私は九州出身の同い年のMちゃんと
四国出身の2人の男の子と過ごすことが多かった。
だがここで、私はロンドンにいながらにして
日本という国内のカルチャーショックを受けることになる。
Mちゃんも男の子たちも、普段は当たり前のように
九州や四国の方言を話すのだ。
当時『方言=大阪弁』くらいしか認識のなかった私には
彼らのコトバもイントネーションも衝撃的だった。
特に何が衝撃的だったかというと、たまにわからなくなるのだ。
今のが肯定文だったのか、否定文だったのか。
同じ日本人なのに…!
日本語なのに…!
さらに衝撃的…というか、ショックだったのは
四国から来ていた男の子Y君のひとこと。
「ひろのしゃべる言葉は冷たく聞こえる」
え…
え…?!
これは決して、私の言い方が悪くてきつく聞こえていたとか
そういうことではない。
私が話す標準語が、彼にはとても冷たく聞こえるらしいのだ。
でもそんなことを言われても、私はこの話し方しかできない。
生まれてこの方、私もまわりもみんなこの話し方だったから。
この時私は、地方の人が初めて東京に出てきて
まわりと自分の話し方が違うと感じて戸惑うのと
まったく同じ体験をしたということだ。
ロンドンにいながら。
あの場での“日本人の標準語”は、東京で話されているコトバではなく
四国や九州で話されているコトバだった。
そうか…
西の人にとって私の話す言葉は冷たく聞こえるのか…
帰国後、Y君が送ってくれた手紙を見て
私は更なるカルチャーショックを受けた。
て…手紙も全部方言…!
あたかも彼が話しているような。
そのまんまな手紙だった。
後日その話をMちゃんにすると
「普通、手紙はそこまで話しコトバでは書かないよ」
とのことだったので、
もしかしたらあれは彼のポリシーだったのかもしれないけれど。
ところで2日前の記事『ダンナサマから禁止令!』に
『やる』は九州のコトバなのかどうか…
ということを書いた。
あれに対して、福岡出身の友人が「なるほど!」な回答をくれた。
彼女によると、やはり『やる』と言うらしい。
「あとで、忘れたらいかんけん、今お金やっとこうか?」
という感じ。
『あげる』も同じ。
そして上から目線の感覚もない。
やっぱりね~
なるほどね~
さらに彼女が言う。
「払う、渡すの方が使わないかも。なんだか硬い感じがしちゃう」
これを聞いたとき、私はY君を思い出した。
“ひろのしゃべる言葉は冷たく聞こえる”
あれと同じだ。
西の方の人にとって、私が話し言葉として使っている日本語は
硬く冷たく聞こえるらしい。
なるほど。
もともとの出身地が東京近郊以外だと、
「自分たちが話している言葉とテレビの中で話されている言葉な違う」
という認識が子どもの頃からできるらしい。
でも東京で生まれ育つと、そういう感覚は培われない。
“冷たく聞こえる”
“硬く聞こえる”
そんなつもりはまったくない。
でも環境によって、『個人』とは関係なくそう受け取られるということだから―――
知っておけてよかった。