お行儀の悪い標準語も方言だった! | ことばの魔法 ことばのチカラ~ことば探検家ひろが見つけたコトバと人間

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ことばに宿る、不思議なチカラ。
人間の言語習得やコミュニケーション能力の奥深さはまだ解明されていないけれど、とんでもなくおもしろい。
気づいたら私のコトバ探検は本格化されていた。

北海道に来るまで、私は方言というものにほとんど免疫がなかった。

“方言と言えば大阪弁”
そんな、あまりにもお粗末なイメージしかなかった。

「私たちが話している言葉は標準語ですよ」と学校で教えられ
家族も友人も、ほとんどが自分と同じ言葉を話す。

イントネーションも言葉遣いも。

以前の記事に書いたけれど、高校生くらいまでは特に
少しでも違った話し方をする友人がいれば「変なの~!」と思っていたくらい。

ましてや家の中では敬語が飛び交い、
おもしろがって男の子のような言葉を使えば叱られる。

知らず知らずのうちに、言葉に対する自分の基準は
育ってきた環境によって確立していくものだ。



北海道に来てしばらくの間、
私はたびたび女性の言葉遣いにぎょっとさせられた。


 「~~~なのかい?」


特にこれ。


 は?

 『~かい』??

 何、この人!

 なんて言葉を使うのかしら!!


東京の方で「~~かい?」なんて言おうものなら
「なんて汚い言葉遣いをする人なんだろう」と思われる。

これはどちらかと言えば、男言葉だ。

それも何というか…オジサマなイメージ。

同世代の男性陣にでさえ、「~~かい?」なんて言われたら
私はちょっと、引くかもしれない。


でもそのうちこれが、“言葉遣いの汚い人”なのではなく
北海道弁なのだとわかるようになった。

そしてよくよく観察していると、
この『~~~かい?』に込められているのがあたたかい気持ちなのだと
感じ取れるようになってきた。


 お母さんが子どもに対して 『寒いのかい?』

 奥さんがダンナさまに 『何か飲むかい?』

 看護師さんが患者さんに対して 『大丈夫かい?』


ああ、そういうことか。

じゃああの、初めて聞いた『行ってきたのかい?』も
同じだったんだ…。


自分の中に基準を持つのは大切なことだ。

でも自分の基準はあくまで自分の基準。
育ってきた環境の中で培ってきたものであって
絶対的に正しいものとは限らない。

自分の常識は、トコロ変われば非常識になる。


でもでも!
帰ればやっぱりお行儀やマナーの悪さに繋がることもある。
人に不快感を与えることだってある。

だからどっちがいいとか正しいとかいうことではなく
『こういう世界もある』
『ここはこういうところ』
と思えるかどうか。

自分とまわりが気持ちよく一緒にいられる環境を創るのは、自分たちだ。


 トコロ変わればコトバも変わる。


それを知っていたらいいのよね。