ナイジェリアからやってきたDさんは、とてもよく話す女性だった。
止まらない 止まらない。
ずーーーーーーーーっと話している。
「ちょっとあのペースだと、さすがに俺ついていけなかった…」
とは夫談。
そうでしょうね。無理しなくていいよ^^;
彼女は「日本は美しい素敵な国だ」と言ってくれていた。
でもおそらく、英語の通じない国でストレスを感じていたのだろう。
会話の成立する私と出会ったことで一気に爆発したようだった。
そんな彼女の目に映る日本を聞くにつれて
私は日本という国内で起きている『街や社会』と『個人』の
言語に対する温度差や心の開き方の違いを強く感じていった。
ここ数年、外国人旅行者を呼び込もう、対応しようということで
各地に英語をはじめ中国語や韓国語などで表記されたサインや
パンフレットを目にするようになった。
家電量販店に行けば、上記の言語にプラスして
スペイン語、フランス語、ロシア語他、多数の言語でアナウンスが流れている。
これはおそらく、気持ちよく買い物していただくためと
トラブルを防ぐためという両方の側面を持った対応だろうと思う。
でもそれが、彼女を余計に戸惑わせたようだった。
「英語で書いてあるから聞いたのに!全然通じない!!」
…確かに。
店として、社会としては対応しようとしている。
英語は特に、日本社会が「対応しなきゃマズイ!」と強く思っている。
でも実際にそこにいて、海外からやってきた人達と触れ合うのは
張り紙でもアナウンスでもなく、そこにいる『人』。
でも多くの日本人は英語に苦手意識を持っている。
英語を話せる人は、まだまだスペシャル扱いなことが多い。
「コミュニケーションできない!!」
それが彼女のストレスとなっていたのだろう。
私だってそうだけれど、日本国内でごく普通~に暮らしていたら
自分から積極的に関わろうとしない限り、日常では英語を必要とはしない。
職種によっては必要なものもあるけれど
全社会人が英語を話せないとまわせない社会なわけではない。
だからこそ、の問題が起こっているのだと思った。
街も社会も多言語に対応しようとしている。
でも実際そこで生きて暮らしている人たちはそうではないという事実。
それが、今の日本という国だと。
彼女の嘆きは、裏を返せば日本の悲鳴のようにも思えた。