世界には、3言語以上で話されている国が約6割あるという。
単言語国家の日本で生まれ育った私は
最初その存在を知ったとき、にわかにはその意味がわからなかった。
約12年ほど前、イタリアで暮らす友人のもとを訪れた。
今にして思えばあの時が、私の『多言語』への興味の始まりだったように思える。
彼女はミラノの大学に通い、そのままイタリアで仕事をはじめた。
生活は基本イタリア語。
もちろん大学の講義もイタリア語。
今考えても、彼女のイタリア語レベルは相当なものだったのだと思う。
そんな彼女だが、ふとこんなことをこぼした。
「ヨーロッパに住んでいて英語が話せないって恥ずかしいんだ」
え?
そうなの??
イタリアはイタリア語の国だ。
彼女はイタリア語で何の問題もなくコミュニケーションがとれる。
なのに英語が話せないと恥ずかしい??
単言語国家の日本で生まれ育った私には、
彼女の言う言葉の意味がイマイチ理解できなかった。
日本は四方を海に囲まれている。
それ故、文化や言語が混在することなく、独自の発展を遂げてきた。
(正確に言うと、中国や韓国といった大陸の影響を少なからず受けているのだけれど
その話はちょっと置いておいてね。今は“陸続きのヨーロッパ”と比較しているので。)
そんな国で生まれ育つ中で無意識に身につけた価値観は
『大陸』という、人間が引いた国境があるだけの、地続きの国々で暮らす人々の
混在する文化や言語を簡単にイメージし理解することには繋がらなかった。
そんな彼女がスイスに旅行したときのことを話してくれた。
「道を挟んだ向かいのアパートで話している人たちがいたんだけどね。
片方はフランス語で話していて、もう片方がドイツ語で答えてたの」
は?
何それ?
どうして全然違う言語での会話が可能なわけ??
当時の私は『多言語国家』という言葉も
『母国語として何ヶ国語も話せるのが当たり前』という国の存在も知らなかった。
だから、人間にとって母国語というものは
日本人にとっての日本語のようにたったひとつなのだと思い込んでいた。
環境さえあれば一人ひとりが何ヶ国語も自然に習得して話せるようになるなんて
まったく知らなかったし考えたこともなかった。
「スイスでは4ヶ国語話されているんだよ」と聞けば
Aさんはフランス語しか話さない(話せない)
Bさんはドイツ語のみ
Cさんはイタリア語だけ
Dさんはロマンシュ語を話す人
と、それぞれわかれているものだと思い込んでいた。
今思えば、そんなこと、あるわけないのに。
母国語が複数あるだなんて、思いもしなかったのだ。
フランス語もドイツ語もイタリア語もロマンシュ語も
すべてが不自由なく同じように話せるのなら
あの、彼女が見た光景は何ら不自然なものではない。
むしろ、日本という環境の中での価値観しか持っていなかった私が抱いた
「変なの!」という感覚こそが不自然なものだったというわけだ。
ヨーロッパの言語は似ている。
地続きだから自然と混在するという理由もあるし
もとが同じラテン語系であれば、それも理由のひとつにあげられる。
同様のことは、アジアの漢字文化圏の言語でも起こっている。
でもだからといってこれは
「日本人にとっての標準語と関西弁の違いだよ」ということではない。
それはちょっと違う。
そもそも『ヨーロッパの言語』とひとくくりにしたものと『日本語』を比べたら
言語の広がり方も、話されている規模(面積)も違いすぎるのだから
日本語に無理矢理当てはめてイメージしようとすること自体に無理がある。
だからそこで変にまとめる必要はないのだけれど
ひとつ言えるとしたら
やっぱりコトバっておもしろい!
多言語って楽しい!!
っていうことかな。
あ、ふたつ言っちゃったけど♪