人間は寄り集まって生きることにした。

いつからか、そんなことは分からない。

てかそれは人になる前からだろう。

ときに言葉はなく概念がないから、

専ら體(DNA)に従がうばかり。

神の事の場で基本まんまに生きる。

でも集まって生きるには理由があろう。

命の使命はただ一つそれは生きること。

でも一つひとつの命には限りあり、

ゆえ次の命を残すことに注力する、

これは命の習い性とするところか。

寄り集まるはそれを高めるが第一。

その在り方は種により色いろだが。

てか人間はそれなくして生き残れなくなった。

頭脳が大きくなりすぎ體の成長が追いつかず、

母は生まれて三年は子にほぼ付きっきり。

人間・雄はゆえここが他の雄とは異なる。

ただの雄ではなく男となるのです。

なおこの間に子は概念の扉を開く。

そんなこんなで、

・・・・・

ともかく人間は言葉を持った。

ゆえその在り方を言葉でその念で示した。

それが所謂、政治経済社会、と言うもの。

政治はその集まりの肝であり率するもの。

言葉がなくともこれは出来るもの。

猿山のボスがそれである。

これはその集まりを根っこで仕切るもの。

どこまで仕切るかは種により様々。

経済は生活の糧を専らに扱うもの。

その仕組みのことである。

これは言葉なくしてはありえない。

これはその調達と分配を差配する。

そこに色んな要素がある。

ゆえに言葉が必要になる。

社会は集まり内での関係性の総体のこと。

てか本来的に重要なのは母と子で、

これこそその種の生存に直接関わるもの、

これを軸にして回るもの。

哺乳類を全体的を見れば、

雄はその役目は実に単純、

生れてくる子に己のDNAを与えるだけ、

種の保存に資するために、

後はほとんど用なし。

あるとすればそれは外敵から守ることか。

人間も哺の生き物にてそこは変わらない。

てか人間の場合むしろそこが男の所以に。

政治とは人を仕切るもの。

それには力が必要である。

猿山のボスならそれは腕力か。

それは所謂「武」の力である。

人間もそこは元より同じだが、

言葉を持ったがゆえそこが少しく異なる。

てか仕切る道具が「言葉」になるのです。

武の力もそれであるがそれは言葉あってこそ、

武の力もそれであるがそれは副次的なものに、

このことを肝に銘じよう。

にしても力は善でもなく悪でもない、

それは壊すことにも守ることにも使える、

このことを肝に銘じよう。

それにしても日本は凄い。

それは天皇に仕える陛下がおられること、

そしてその陛下が政治の頂点におられる、

仕切るが政治であるに決して仕切らない、

てか仕切らないが至高の仕切りとなると、

このことを覚えよう。

経済とはそも助け合いである。

生きるための糧を求めて働き、

その成果物をお互いの了解のもとに交換する、

そして社会も個人もより豊かに生きようとす、

多ければ多いなりに少なければ少ないなりに。

お金は価値そのものではない、

交換の目安であり為の有用必須な事物である、

お金の価値は正にここにあり。

このことを肝に銘じよう。

ゆえお金の存在は経済には不可欠で、

これも又疑いの余地なし。

てか何度も言っているが、

それもこれも自由人の働きがあってこその仕組み、

これが奴隷労働やその残滓の元では意味をなさず、

ときに交換は交換たり得ないものに。

その点では現下の資本主義は、

お金を価値の根本に据えた巧妙な奴隷経済になっている。

てか分っていてもどもならず。

ともかくそれを知っておこう。

社会とは人々の集まりであり、

その関係性の総体のこと。

これは言葉の有無と関係なく、

集まって生きるとなれば、

自ずとできるものである。

その集まりは種や族とか称するが、

言葉の生物の人間の場合、

その上に「文化」が乗る。

てかその大元は言語なり。

命の目的が命の継続ならその集まりもまた同じ。

ときに大事は母子を守ること。

ゆえ私は言っている、世に事件は色々あれども、

最も質の悪い事件は、大人の子殺し男の女殺し、

てかその逆は運が悪いだけと、

てか冗談半分てか本気大半で。

一つ気がかりが、

それは男女平等同権とか男女共同参画とか、

意味不明のスローガンの跋扈、

てか雌雄の違いは類をも越える大きな違い、

その違いをなぜか消そうとは、

てかまあ相手にしていないが。

・・・・・

思えば「在る」はひとつ、

モーセの問いに答えて言った神の言葉、

私は「在る」ものである、正にしかり。

この世界はすべてが繋がっている、

全にして一かつ一にして全である。

てか政治・経済・社会と三つに分けて語っても、

本来はひとつのもの、

言葉は分けて分かったような気になるもの、

てか人々の在り方を三つに分けているだけ、

それを更に分けててか更に分けて又分けて、

分かったような気になる、

それが「分かる」であり、

てかそれで良いのである。

そして最後は玉葱の皮むきの如く空の空に。

空とは何か、私はそれを場とする、それつまり事の場なり。

在るは一つ、それは事の場のこと、神の事の場のことなり。

イエスは言った、汝狭き門より入れ、とか。

それは神の事の場への門のことかと。

そこからはみ出した人間にとっての。

てかその門は狭いという。

でも思うのです、

そも門(扉)は狭いもの、

広ければそも門をなさず。

日本の漫画アニメには既にそれが登場している。

てかここで言っている意味ではないと思うが。

してもゆえ日本の皆様はそれを知っている。

てかあの有名な「どこでもドア」である。

これはいつでもどこでも目の前にある。

その気なればいつでもどこでもです。

てか私はまじめにそう思っている、

ニャン!