これは移民のことであるが、

同時に異民をも示している。

人間皆同じ、とはよく言われるが、

このことは勿論その通りであろう。

でも言葉のこと(質=たち)を知っていればいいが、

それを心得ていないと簡単に騙される。

日本人は言う、理屈と膏薬はどこにでも付くと、

かくの如く日本人はそれを心得ていた。

言葉は分けるもの、線を引いて分けるもの、

ゆえどこに線を引くかでそのイが変わってくる。

これ言うまでもなし。

既に言ったが、平等と対等、ここに明らか。

なのにである、この体たらく、

人類の劣化今や止めなし、

日本人も例外たらず、

てか、

・・・・・

種としての人類は一種であり、

それをホモサピエンスと言う。

その特徴は一に言葉を持つということ。

その體(もの)はDNAと言うものに導かれる。

その魂(こと)も勿論同時に。

特筆すべきはその體が言葉を持つ力を持つと謂うこと。

でも言葉そのものは持っていないのである。

言葉は人(母)に育てられて得るもの。

DNAは直接的には関わりません。

それは専ら人間の技なのです。

このことを覚えておこう。

てか人間皆同じと言うはこのDNAにあきらか。

どこに住もうがてか文化文明に関わりなく、

調べればその99.9%は同じなのである。

違いはその種の中での個性となる。

これは本質は同じということ。

ゆえ皆同じとは正に正に。

問題はむしろ言葉(言語)にある。

歴史伝統文化は言葉がつくるもの、

それが今の生き方すべてに関わる。

それを私は一言で文化(生き方の総体)と言っている。

てか言葉と文化は切り離せないと。

ここに焦点を合わせて線を引けば、

人間は皆同じ、ではない。

言葉は人間がその土地の人間が育てたもの。

方言とか言われるようなものならともかく、

大きく違えて別言語となってしまったなら、

それはもう別のイの人間(イみん)である。

それでもなお交わろうとするは結構なこと。

でも為にそのイの擦り合わせが必要となる。

それはてか入っていく者にこそ必要であり、

その基本は、郷に入れば郷に従え、である。

それが観光等の一時的なものならまだしも、

そうでないならその土地の文化を尊重してしかるべし。

それが移民となればなおさら。

だから私は言うのである。

その国が好きでその国で生きていこうとは、

その国の文化(≒言語)を良しとするもの、

てかこれが本来の移民(帰化)と謂うもの。

てかそれはまた新しい風を持ち込むことに。

てか受け入れる方が良しならそれも又良し。

てかそれ以上にときに尚歓迎されることも。

余談だが日本はかかることが実はよくある。

てか移民なしでも積極的に取り込むことが。

良しとすれば進んで取り入れるそんな国柄。

とは言えそこにはやはり選別の基準がある。

てかこれも、郷に入れば郷に従え、である。

これは風(文化)のことだが、風も人も同じ、

思えばこんなの当り前でしょうに。

ところで聞くところによれば、

これが思うようにいかなくて、

欧州はその社会が壊れてしまったとか。

これは自らの硬直した言葉(言語)の呪縛、

それに覇者たるの歴史の因縁もあって、

ついに身動きが取れなくなったか、

てかこの先どうするのだろう、

…、

・・・・・

文化は言葉によってなるもの、

これを壊すのも又言葉である。

違いを認めてイを定めそれを拠りどころとしてなる文化。

なのにその違いを次々に否定するリベラル的諸言辞。

典型的には「平等と対等」の平等という言葉である。

他にも、権利や中でも特に人権それに正義平和など。

これらは本来良きイの言葉である。

でもそれらは現実にはないもので、

それは人の頭中にのみある概の念。

これを先を照らす灯りとするなら素晴らしい。

なのに現実を分別するイを次々と消していく。

これが文化を壊さないはずがない。

てか壊しに壊しているのが現状である。

なかでも矛盾の最たるものが「多文化共生」である。

多文化共生と言いながら実際は文化を破壊している。

共生とはそも棲み分けをしてなるもの、

今次日本で問題になっている熊騒動も同じ、

共に暮らすはとても無理、

熊を守るなら如何に棲み分けをするかであろう。

郷に入れば郷に従う、が出来なければ、

それ以外に解決策はなし。

てかリベラル以上に問題なのは宗教である。

私に言わせれば、

宗教とはまさに人の言葉でなっており、

これはむしろ文化の中の一部であろう。

思うに神の言葉は現実の中にこそある、

それを人の言葉に置き換えるは人の作、

それがどんなに現実をとらえていても。

聖者が神の言葉で伝えるならともかく、

それが人の言葉なら人の作と観念せよ。

その上で信じる信じないは自由である。

それを「信教の自由」と言う。

でもこれは個人のことである。

てか同郷なら共にあるもよし。

てか同郷でなくとも構わない。

でも他所へ行けば、郷に従え。

これをせず「信教の自由」などはない。

てか他所の自由なして当所の自由なし。

信仰に生きている方々は大抵そうしている。

てか私は信仰と信教は使い分けている。

信仰とは神(の言葉)を仰ぐもの。

信教はそこから派生する人の教え。

てか以下は独り言、

神様が食の禁忌てら言うのを聞いたことがない。

てか豚肉や牛肉を食っても誰も罰は当たらんし。

てか命を養うものに感謝はしても文句は言うな。

それに何をどうしても命は最後は星に帰るもの。

地球生命なら地球と言う星の大地に帰るのです。

なのに土葬に拘って子供じみたことを言う。

土地には土地なりの作法あり、

郷に入っては郷に従えである。

てか狂った土人には決してなるな。

ちなみに序でだが選民思想ほど鼻につくものはない。

これまさに傲慢の極み、むしろ信仰の敵と知れ。

しても個人の信教をとやかく言うつもりはない。

そんなことですが、

いかんいかん、

今日はちょっと頭に血が昇ったか、

余計なことをつい言ってしまった、

いつもはちゃんとしまってるのに。

反省!