神の言葉は、神の事場、
それは場でありそれはそこにあるすべてにとって中立でありゆえ相対的である。
それはつまりすべてが中心だということ。
てか果てがないならそう捉えるしかない。
人の言葉はそれを真似たもの写したもの、
してもそこは所であり「きょく」である。
それは人という局また私という極であり、
それはゆえ偏りであり、
だからゆえそこを中心として絶対化しやすい。
これを人はその初めから察していたのか。
ゆえ神と諮らってそれを罪としたか。
てかこれは方便が過ぎたのでは、
今更ながらだがそれを思う。
・・・・・
私の発想はそれもこれもすべて日本語に依っている。
その初めは「ものごと」から始まる。
世界は物事で出来ており且その物事は一体であると。
それを敢えて分ければ本体は事であると。
和語は言葉の本体を語尾に置く。
すなわち「こともの」ではなく「ものごと」と。
もしも世界が物だけで事がなければ、
一瞬と永遠を区別できずそこに世界は現れない。
だから言ったのです、
事が本体で物は付随するものと、
事なくして物は無しである。
てかこれ逆も又真だが。
てか知るとは物を知るでも事を知るでもない。
そは物の事を知るである、てか言わずもがな。
世の多くの人がゆえ唯物論を取り違えている。
てか分かりやすく言えばそれは物事論である。
唯物論とは実に不用意な命名である。
これを覚えよう。
お釈迦様も同じようなことを言っている。
色即是空・空即是色・因果応報・輪廻転生、これがそれである。
色とは物、空とは場、因果応報と輪廻転生は事のこと。
上記の物事では場がなかったがそれは大前提、
ここではそれを空と謂う言葉で応じてる。
物は場が在ってこそ、場は事が在ってこそ、事は物が在ってこそ、であり、
物には場が必要、場は事とともに、事には物が必要、と言う関係、
てか華麗なる三角関係、
存在とはこの三位一体、
なんちゃて。
聖書も同じようなことを言っている。
初めに神は天と地を創造された。
これは大前提の場の設定である。
これは物も同時にあったとの体。
神の最初の言葉は光あれである。
これが世の物事の始まりである。
これは場に事(光)があったとの体。
そこから更に次々と…創られていく。
これは事(光)が物を現わすとの体。
その最たるものが生命であろう。
山川は光と交わりて草木を為す。
これが地球生命の始まりである。
生命には魂が宿ると言われるが、
命に限らず物にはすべて事(言霊)が宿ると謂うこと。
そして聖書ヨハネの福音書にて、
ヨハネは「初めに言葉があった」と、神ではなく言葉がである。
しかして「言葉(事場)は神である」と。
ここにあの三位一体がなる、
父(場)と子(事)と精霊(物)の。
これギリギリの親父ギャグだな。
てか初めからギャグのパレード
てか日本語ならではの技である。
てか私の思考思慮等ほんの僅か。
それを頼りにギャグってるだけ。
てかこの冒頭で言ったこと、
これらはすべて日本語に依っているとは、
このことを指している。
・・・・・
日本語は他の言語とは、
これは大きく異なると。
中でも凄いと思うのは、
特に私が凄いと思うのは主語がないこと。
これをなぜか誰も言わない。
てかこれ言う人を知らない。
でも私がこれを言うは私の発意ではない。
これを言った人がいる。
私はその人の本を読んだのです。
そしてそれは正にそうだと。
思うに諄いようだが動物たる人間に私がない筈がない。
私が私中心に回るは必然である。
彼が彼中心に回るは必然である。
言葉を持った人間には尚のこと。
我思う故に我ありとは言葉の技。
ゆえ主語は基本的に人格である。
なのにそれがないとはこれ如何。
想うに言葉を持った人間が最初に語るは「場」であり、
ときの関心は何よりも場そのものに、
それを主題という。
人も人である私もそこではただの要素に過ぎない。
てかそこでは「人」も「私」も相対化される。
神の言葉に倣うならそういうことに。
そこに主語はなくそこにあるは主題。
主題が明確なら人格は後からついて来る。
日本語はそういう言語なのです。
だから情景を情景のままに坦々と語れる。
それをまた別の角度から言えば、
私が在って世界(場)がある、ではなく、
世界(場)が在って私がある、である。
思えばこれ当然のこと。
中心は私ではなく場にある。
尚それは場の何処にでもである。
ドラえもんのどこでもドアのように。
思うに人の事の場に於いて人目線は当然、
にしても日本語はそこでも神目線を忘れない。
日本が神国だとはこの故か。
それが日本語の世界であり、
てかそれが日本の文化となっている。
日本に絶対化はそぐわない。
日本は何事をも相対化する。
ゆえに日本は力を持っていても支配はしない。
先の戦争でもそこは基本変わっていない。
侵略戦争とはどの口が言ってるのか。
世界にはこの感覚が欠けている。
ゆえに戦争はなくならない。
このこと覚えておこう。
・・・・・
かく言う事例はいくらでもある。
例えばあの東日本大震災がそれ。
ときの被災者のあの振る舞いに。
そこには自分さえ良ければという発想がない、
同列にてかときには他者優先も見られる、
てか何よりも暴動や略奪がないこと、
などなど枚挙に暇なし。
それに昨今のインバウンドの盛況なこと。
てかおもてなしもそれであろう。
これは自分中心ではなく他者中心である。
てか日本人なら逆の場合でも同じである。
てかおもてなしにはおもてなしで応える。
それは必要以上にその場を汚さないこと、
それに感謝して存分に楽しむことである。
ゆえに旅行者としても重宝されるのです。
一般的には民度が高いと言われるが、
それには教育もあるが、
その根子は文化にあり、
てかそれはすべて言語に集約される。
欧米はそれを宗教に負わせるが
宗教はときに猛毒にもなる、
てか絶対を立てるから。
ならばと宗教を捨てるもなお闇深し。
今や欧米は八方塞がりの状態である。
それは世界の見ていれば明らか、
思えば日本とシナは水と油てか、
常に私中心の絶対から離れない、
もはや箸にも棒にも掛からない。
であるがこれはその文化においてのこと、
個人的にはそこは色いろである、
ハイ!