シリーズ第27弾は、谷崎潤一郎の『神童』を取り上げた。底本は角川文庫版。
 

 

 


例によってあらすじは割愛する。角川文庫版では「100分間で楽しむ名作小説」という触れ込みもあり、本ブログの読者諸氏もぜひご自身で読み解いてほしい。

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■「聖人」たらんという勘違い

本書を読んですぐに気づくのは、主人公・春之助自身の姿は、自分が目指す「聖人」とは似ても似つかない、ほど遠い存在であるということだ。ただ人並み外れて勉学ができるだけの、悪い意味での「ガリ勉」である。

他者の痛みにも鈍感であり、勉学ができない人間のことを異様に見下げてもいる。

一例として、奉公先で勉強が苦手な玄一の家庭教師を担当した際には、

お前も馬鹿な人間だ。己はお前なんぞに同情を寄せるような、低級な自負心は持っていないのだ。己の眼からは、お前もお久も主人のお町も、皆一様に可哀そうな、下らない人間に見えるのだ


などとつぶやいてしまっている。完全に「勘違い」をしている。

これにはさすがにしかる後、自身でも傲慢であると反省するわけだが。この段階では、春之助が目指す先は「聖人」というよりも、例えばニーチェの提起する「超人」に近いと思った。
(ニーチェは「同情」が嫌いである!)

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■「実存の三段階」との類似

ニーチェの名前を出したので、ついでに実存哲学つながりということでお許し願いたい。
本作を通して描かれる春之助の内面の変化が、僕はキルケゴールが提唱した「実存の三段階」と類似していると考えた。
 



 

「美的段階(実存)」⇒「倫理的段階(実存)」⇒「宗教的段階(実存)」

多くの人が子供時代に経験し、大人になっても快楽や美といったものに心を奪われる「美的段階(実存)」。
大人になるにしたがって、各種の社会規範や法、ルールを尊重した社会人としての「倫理的段階(実存)」。

キルケゴールはさらに、もう一段階の重要性を訴える。
どれだけ大人として正しい道を歩もうとしても、人間は不完全なのでどうしようもない自分と向き合う段階が来る。そこで初めて、自分の力を超え倫理をも超えた神の存在を認める。これこそが真の信仰であり、宗教的段階である。

一般的には美的段階(実存)がもっとも低級なものであり、宗教的段階(実存)がもっとも困難な道であると考えられるのだが、「聖人」を目指す春之助は「美的段階(実存)」と「倫理的段階(実存)」をすっ飛ばしてしまっている。

足場をしっかりと固めていないせいで、中学に入った春之助は自分の容貌や体力の無さにひどく落胆することになる。やはり最終的には、「美的段階(実存)」の大切さに気付くというわけだ。

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■なぜ春之助は「直接性」を生きられなかったのか?

春之助の人生は神童(将来の聖人)という華々しいスタートを切ったが、次第に「知」よりも「美」に惹かれるようになった。いわば「実存の三段階」の逆パターンである。

なぜ春之助は、実家にいた小学校時代に、美的段階を踏むことができなかったのだろうか。

ただ単に世間知らずであったからか。もしくは自分も周囲も質素で素朴な生活スタイルを送り、そこに何の疑問も持たずに来たことが、かえって仇になったのだろうか。

中学校に入り奉公人として日々を送る中で、いろいろな世界。
それこそ教科書では決して学ぶことができないようなドロドロとした、しかしとても魅力的な大人の世界を、身をもって体験することができたからか。

奉公先の面々は、春之助が実家で味わうことができなかったいろんな「美」の象徴を、随所で備えているさまが分かる。

かつては自分自身が馬鹿にしていた「美」の沼に、まんまとはまってしまっている。

そうであれば当初嫌がっていた丁稚奉公も、春之助にとって捨てたものではなかったどころか、結果的に人生の転機にもなったといえよう。

ちなみに大人になってから改めて美的段階を生き直そうとする姿は、実は「実存の三段階」を提唱したキルケゴールも同じである。

彼もまた、幼少期に味わうことができなかった「直接性」の大切さについて、思いを巡らせている。

誰しも幼少期には、神や永遠、罪や罰といった概念とは無縁に、さまざまな物事がもたらす喜びを、そのまま享受して生きる。直接性というあり方である。だが彼は、父ミカエルによりその懸念を幼少期にすでに植え付けられた。・・・(中略)・・・子どもにしてすでに反省的であった。彼は、このような例外的な自分の場合には、大人になったあとで、直接的に回帰することが、ひょっとしたら可能なのではないかと問うのである。彼はその信仰の境地を「反省のあとの直接性」と概念化している。

(参考文献:鈴木祐丞『キェルケゴールー生の苦悩に向き合う哲学』第6章「逡巡」)

 

 

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■春之助の将来とは?

結局春之助は、「知」よりも「美」に目覚めた。
小児の頃の趣味に戻り詩と芸術に没頭しようと決心したところで、物語は幕を下ろす。

そこから先。書かれていない春之助の人生は、どのようなものになったのであろうか。

あくまで想像だが、きっと明るい道を歩んだのではないかと思う。

キルケゴールの「実存の三段階」に即して考えても、「美的段階」はあくまでも最初の段階。最終ゴールは「宗教的段階」である。

もともとは「聖人」になりたかった春之助。
少しだけ遠回りをして、経るべき段階をやり直してからでも、きっと間に合うだろう。

そのことは「美」に目覚めた瞬間、

 

春之助の前途には再び光明が輝きだしたようであった。


と言及されていることからも、説明がつくと思う。