前々からトルストイを取り上げたいとは思っていた。
しかも長編代表作の一つでもある、『復活』を。

だが幾分、長い。論点も多すぎる。
そこで今回はシリーズのナンバリングタイトルとしては扱わず、何度か読み返した現時点での感想文的な何かを書いてみる。

底本として用いたのは、岩波文庫版(藤沼貴訳)だ。

 

 

 

 


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【復活】とは何だろう?個人の内面的なものを指すのか、あるいは社会的に虐げられた人々の解放の意味を指すのか。

たぶんそのどちらも正解なのだ。

物語の一方の主人公、ネフリョードフは自らの過ちを悔いて、ある種内面的な再生を果たしていく。

傷つけてしまったカチューシャだけでなく、囚人や農民たちの理不尽としかいいようがない状況を目にして、その人たちをなんとか解放してあげようと奔走するネフリョードフの姿。


ある意味でこれは救世主である。救世主というと、イエス・キリスト。キリストの【復活】になぞらえられるように、ネフリョードフの手によって救われていく人々の【復活】。

だが最後の最後、ネフリョードフとカチューシャは結ばれない。ネフリョードフにとって、これは失恋と言えるかもしれない。

もとはといえばネフリョードフが捨てた。最後、今度はカチューシャがネフリョードフを捨てた。否、これは惚れた腫れたのただの恋愛小説ではない。

物語の冒頭部で、新約聖書のイエスの言葉が掲げられている。

 

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」

イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」


(マタイによる福音書18:21-22)

 

ネフリョードフとカチューシャは、それぞれ自分なりのやり方で相手を「赦した」。どこまでも。

ただこのあたりは読んでいて難しく、なかなか理解が追いつかない自分もいる。
 

内面的な改心も【復活】と呼ぶなら、まさにネフリョードフとカチューシャも【復活】したのだ。
そういう意味では、本書で提示されている【復活】のテーマはとても重層的であるといえるだろう。

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ドストエフスキーを読んでも思うことだけれど、ロシア文学には西欧圏の文学とは違う、正教的な香りがぷんぷんするのだ(正教の国だから当たり前なのだが)。

(参考)

西方教会と東方正教会の違いとは? 三位一体論から人間観、救済観、復活観まで

コトバンク 東方正教会

2024年のイースター(復活祭)は3月31日だった。そういうわけで、本当はその頃に本ブログを上梓したかった。
もし来年以降も自分が生きていられたら、また復活をテーマにした作品をもってリベンジしよう。
(ただしトルストイの『復活』以外の作品でお願いね)