今年ももうすぐ、クリスマス。

シリーズ第26弾はベタな選出かもしれないが、チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』を取り上げた。

底本は、光文社古典新訳文庫版(池央耿訳)を採用している。

 

 



本作については多数の訳本があり、映画や舞台化もされているから、ご存じの人もたいへん多いことと思う。

『まんがで読破』でもシリーズ化されているので、あらすじだけでも確認してみてもいいかも。
 

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ではここから、自分で読んで感じた感想をいくつか。

 

■ちりばめられたメタファー

本書を何度か読みかえして気づいたことの一つに、暗喩(メタファー)がそこかしこにちりばめられているということがあった。以下、数点まとめてみる。

🎄マーリーが死んだ日付

物語の導入部、募金をお願いしにきた紳士との間の会話で、スクルージの相方であったマーリーは、7年前の今日。クリスマスイブの日に死んだことが明かされる。

7という数字はキリスト教にとって大きな意味を持っている。ましてクリスマスイブとなると、いよいよそれは間違いなかろう。つまり救世主が降誕するまさに寸前、すんでのところで亡くなってしまったというわけだ。

亡霊となって現れるマーリーは、ご大層にまたクリスマスイブの日を選んでいる。これもおそらく数少ない盟友であったろうスクルージの今後の運命を、左右することの暗示に読める。

🎄スクルージ(=冬、寒さ、冷酷)のメタファー

 

・・・冷たい心は老眼を凍らせて、鷲鼻をかじかめ、頬に皴を刻んだ。・・・(中略)・・・頭に白霜をいただき、眉と、しゃくれた顎のまだらな髭にも白いものが目立っている。行くところ、必ずその低い体温であたりを冷やすから、暑い夏の盛りにも事務所はうそ寒く、クリスマスを迎えていくらかなりと温まることもなかった。


(第1節 マーリーの亡霊)

 

スクルージの様子については、「冷たい」「白霜」「うそ寒く」などと、とにかく「冷たい」存在であることが強調されている。
「必ずその低い体温であたりを冷やす」とあるように、自分のみならず周囲の人に対してもである。そういう意味では、今一緒に働いている会計助手は、特に気の毒な状態にある。

もっとも後に精霊から見せられた光景で、この会計助手こそがスクルージを大きく改心させるきっかけの一つになるわけだが。

🎄冬至との関連

いうまでもなく、クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日だ。もっとも近年の研究では、ミトラ教の冬至祭りをそのまま流用したとされる説が濃厚らしいが。

上二項との関連でいえば、闇が強い(日照時間が短い)日が続いた中、クリスマス(=冬至)を境にまた光が強くなる(日照時間が長くなる日)になるわけであり、人々の心にもまた火が灯り出すというわけだ。

すんでのところで亡くなってしまったマーリーはスクルージのかつての盟友として、亡霊の形をとってまでスクルージに忠告に来た、と考えれば合点がいく。決しておどろおどろしいものではなく、マーリーなりの最高のギフトのつもりだったのかもしれない。

 

■教訓らしきもの、その他感想など

🎄マーリーの亡霊と3人の精霊の正体とは?

物語を最後まで読んでも、マーリーの亡霊と3人の精霊の正体が何なのか、ついぞ明示はされていない。だがそれが一体何なのか、いくつか仮定はできる。

A.スクルージはふとしたきっかけでマーリーのことを思い出し、連鎖的にスクルージ自らの過去の追憶と、現在、未来へ想像を膨らませた

B.スクルージは夢を見ていた
(そういえば以前、ドストエフスキーの「おかしな人間の夢」で、一晩で考えを改める主人公について考察したっけ)

C.スクルージはある種のSF、超常的な体験をした

A、B、Cいずれの仮定が正しかろうと、スクルージは確かに変わった。いや、悪人が善人になったというより、どこかで無くしてしまった大切なものを取り戻した、というべきだろうか。

 

🎄サンタクロース=改心したスクルージ?

読んでいて思ったのは、サンタクロースというのは改心したスクルージなのではないか、と思ってしまったことだ。

もちろんこれは順番が逆だ。サンタクロースの由来についてはいろんなところで言及されているのでここでは割愛するが、改心したスクルージは困っている人に手をさしのべ、子供たちにギフトを贈るサンタクロースさながらの人物になっている。

これも作者ディケンズの仕掛けであろうか?だとしたら面白い。

🎄時代を超えても学べることがある

現在の精霊で案内された先では、スクルージについてのみんなの評判が次々と明かされる。

 

・・・考えてみれば、気の毒な人だよ。どうしても、叔父には腹が立たないんだなあ。あの頑固でひねくれた性格で、いつも結局は自分が損してばかりだからね。


(第3節 精霊(その2))

 

スクルージの甥はスクルージのことをこう評している。甥も人が良いが、スクルージ自体も別に「大悪人」というわけではない。ただいろいろ世知辛い経験をしてきた中で、度を越えて偏屈になってしまったばかりに、結局は自分が一番損をしてしまっているというわけだ。
「嫌い」というより「哀れ」という感じ。こういう人、現代でも沢山いるのではないか。

また、現在の精霊のマントの襞の間から子供が二人よろけ出るシーンでは。

 

子供は男と女だった。肌は黄ばんで垢が浮き、骨と皮にぼろをまとって、いじけた目に恨みを宿している。それでいて、どこやら卑屈には堕さずに謙虚なところがある。健やかな若い命が発育盛りの輝きを見せるはずのところを、言うならば、老人が皴だらけの手でひねくりまわして台なしにした。天使たちが高みに居ならぶべきところに、悪魔の弟子どもがのさばって凄みをきかせている。・・・(中略)・・・「人の子だ」精霊は二人を見下ろして言った。「親を逃れて俺にすがっている。男の子は〈無知〉、女の子は〈貧困〉だ。二人に心せよ。

 

(第3節 精霊(その2))

 

とある。アダルトチルドレン、ヤングケアラー、トー横キッズ・・・。時代は違うけれども、子供たちが我儘な大人たちの犠牲になったり不幸になったりすることほど、悲しいことはあるまい。

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以上、ネタバレになりすぎない範囲で、まとめてみた。

底本にした光文社古典新訳文庫版では、解説を入れても200ページ未満。鞄の隅にしのばせて持ち運んでも読めるくらいのサイズだ。

しかしこのブログを上梓するにあたり、何度も読み返し、気になる箇所は線をひきまくった。紙面は付箋だらけである。あまりに長すぎもせず、難解すぎるものでもなく、それでいて内容はなかなか深い。

こういうものを人は「名作」と呼ぶのだろう。19世紀に出版されて以来、イギリス本国をはじめ世界中の人々に読まれてきたという事実が、まさにそれを裏付けている。