「君は人生で何が価値あるものだと思うかい?」

古の昔より何度となく繰り返されてきた、この問い。
今回の記事でもまた、キーワードの一つになるであろう。

21回目の名作文学批評シリーズ。
今回はイギリスの文豪、サマセット・モームの作品の中から、「エドワード・バーナードの転落」というお話を取り上げる。

使用した本は岩波文庫『モーム短篇選(上)』(行方昭夫訳)で、本作はこの短篇集の中で一番最初に収録されている。

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簡単に物語あらすじを追ってみる。
主な登場人物は、

  • ベイトマン・ハンター
  • イザベル・ロングスタフ
  • アーノルド・ジャクソン
  • エドワード・バーナード
  • エヴァ

の5人。
ここでそれぞれぞの人物の相関図を作成したみたので、参考にしてほしい。



物語の始まりは、アメリカ・シカゴ。
ベイトマン・ハンター、イザベル・ロングスタフ、そしてエドワード・バーナードはお互いに旧知の仲であった。

友達から恋人へと発展したイザベルとエドワードは、愛を誓って婚約をする。
しかし、エドワードの父が株式不況のあおりを受け破産し、自殺。
エドワードは知り合いの伝手をたどり、南の島タヒチで仕事をすることを決める。
イザベルに「成功するまで待っていてくれ」と告げて。

イザベルはエドワードの愛を信じて待つ。
しかしイザベルに定期的に届く手紙の内容から、何かしらの異変を感じったベイトマン。
昔のエドワードじゃない。なんというか、雰囲気が違う。
真相を探るべく、ベイトマンは自らタヒチにいるエドワードのもとに向かう。

ベイトマンはイザベルの父から「タヒチに行ったら、アーノルド・ジャクソンに注意しろ」と釘をさされる。
アーノルド・ジャクソンはイザベルの叔父にあたる人物。
もともとはとても人望があったのに、壮大な詐欺を働き刑務所行きとなる。
その件があって以降、イザベルらは彼を遠ざけていた。

タヒチでエドワードと再会したベイトマン。しかしほどなく目を疑う光景を目にする。
エドワードの傍らにいるのは「悪名高い」、かのアーノルド・ジャクソンではないか!

エドワードはエドワードで、シカゴ時代の伝手をつたっていった会社を怠惰のかどでクビになり、今はアーノルド・ジャクソンらとともに、現地で有閑な暮らしを送っているらしい。

エドワードのあまりの心変わりに終始圧倒されながらも、ベイトマンは彼に一緒にシカゴに戻ろうと必死に訴える。
しかしエドワードは首をたてに振ろうとはしない。

残されたイザベルはどうなる?

「僕が身をひけば君のためになる。君のほうが夫としてより適しているよ」

自ら積極的にイザベルに婚約破棄を通知せず、親友にその座を譲り渡そうとするエドワード。
さらに驚きの告白を。
なんとアーノルド・ジャクソンと現地妻との混血児であるエヴァのことを愛しているというのだ。
 

「エヴァは現在の僕を愛していて、将来の僕ではない。だからどんなことが僕に起きても、失望することはありえないのだ。僕には打ってつけなのだ」


失意のまま帰国したベイトマン。
ことのあらましをイザベルに伝えたのち、ずっと胸の内に秘めていた想いも告白する。

イザベルは快諾。

熱い抱擁を交わしながら、イザベルとベイトマンはシカゴの街とともに豊かに発展していく、二人の幸せな未来を空想していた。
イザベルが「可哀そうなエドワード」とため息をついたところで、物語の幕が閉じる。

 

 

 

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一体エドワードはどうしてしまったのか。
当時の最先端を行っていたアメリカ・シカゴから南の島・タヒチへと生活の軸を移したことで、すっかりと考えが変わってしまったようだ。

■「善人」と「悪人」ってどう違うの?

エドワード「・・・はっきりしなくなったのは、悪人と善人の区別なのだ。・・・(中略)・・・もしかすると、我々は、ある人と別の人の間に差異があると強調しすぎるのではないだろうか。もしかすると、最善の人間だって罪人であり、最悪の人間だって善人であるかもしれないじゃないか?」


タヒチでエドワードはアーノルド・ジャクソンと一緒に暮らしている。

前述のとおりシカゴでの彼は、詐欺罪を働いた立派な「悪人」である。
それは法的な面にとどまらず、文明社会の倫理や社会規範に照らしても。

だがアメリカから遠く離れた南の島で、寄せては返す波を目の前にしていると。
文明社会の作り出した善悪の基準なんて、ひどく曖昧模糊なものに思えてきたり・・・なんてするものなのか。

■本当の意味で「生きている」ってどういうこと?
 

ベイトマン「・・・ここじゃ、死んでいるも同然だ。・・・(中略)・・・君はこの土地にいかれてしまい、悪しき力に囚われている。だが、力いっぱい頑張れば、この環境から抜け出せる」


「悪人」のアーノルド・ジャクソンと仲良く暮らしているなら、もはや「悪しき力」に囚われているも当然だ。
ベイトマンはそう考える。しかし・・・
 

ベイトマン「明日ぼくと一緒に出発しよう。そもそもここへ来たのは誤りだった。こんな人生は君には向いていない」
 

エドワード「いろんな人生があるような口ぶりだな。君が考える人生とは、どういうものなのだろう?」
 

ベイトマン「それには答えは一つしかないに決まっているじゃないか!懸命に働いて自己の義務、つまり、自己の立場と身分に伴うあらゆる責任を、果たすことに決まっている」
 

エドワード「で、どう報いられるのかな?」
 

ベイトマン「自分が計画したことを成し遂げたという達成感が報いだ」
 

エドワード「ひどく大仰な話だなあ」

 

「人生」って何だろうか?ベイトマンは「一つしかない」と言う。対してエドワードは直接的には返答していないが、考えるだけ無駄とでも言いたげな様子である。

こういう状況では、シカゴ時代の勤勉なエドワードを知っているベイトマンの目には、何もかもが堕落してしまったように見えても不思議はあるまい。

 

 

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高度に文明化された現代社会で、息が詰まるような毎日を送っている。
そのことに何かしらの違和感を感じている人は、きっと世界中にごまんといることだろう。

一応ことわっておくが、僕はエドワード・バーナードのような生き方こそ真に正しい生き方だ、と断言する気はない。

高度な文明社会を作り上げ、それをしっかり支えていくためには、シカゴのような活気のある産業都市と、そこで生きる勤勉でクリエイティブな労働者たちの存在が、絶対に必要なのだ。
ベイトマンの言葉を借りれば、「自己の立場と身分に伴うあらゆる責任を果たす」ということであろう。

だから作者のモームが、「エドワード・バーナードの転落」(成功ではなく)と題したことは、ただの皮肉だともいえない気もする。

ここでもう一度、ラストのイザベルのため息に注目してみよう。

「可哀そうなエドワード」。

さて本当に「可哀そう」なのは、南の島で変わってしまったエドワード・バーナードか、それとも・・・