「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」といわれているのに、なんでこうも世の中は不平等なのか。

一万円札の肖像画。三田の赤レンガキャンパスとそこに佇む先生像。
福沢諭吉のことを知らない人は、この国にはほとんどいないと思う。
『学問のすすめ』というタイトルを知らない人でも、冒頭の言葉はどこかで一度は耳にしたことがあるはずだ。

僕も昔読んだ。だがどうしたことだろう、すっかりと忘れている。
これを「名作文学」とするのは、少々強引だと思われるかもしれない(そこは個人ブログの自由さである)。
個人的なやり直しの意味も込めて、シリーズの枠内で取り上げることにした。

今回使用した本は、ちくま新書版『現代語訳 学問のすすめ』(斎藤孝訳)である。

 

 

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こちら文庫本で全230ページ。当然すべての論点を引用したり網羅したりすることはできない。

以下3点だけ気になった箇所を引用し、自分なりに賛同できる点とそうでない点を、少し考えてみたい。

■しっかり学問すれば豊かな人になれる?

明治以前は「生まれ」によって身分が決まっていた。

明治になり武士階級などは廃止された。男女差別など実態として差別が撤廃されたとは言い難かったが、少なくとも建前としては「機会の平等」が謳われつつあった時代だ。

福沢は言う。

「西洋のことわざにも、『天は富貴を人に与えるのではなく、人の働きに与える』という言葉がある。つまり、人は生まれたときには、貴賤や貧富の区別はない。ただ、しっかり学問をして物事をよく知っているものは、社会的地位が高く、豊かな人になり、学ばない人は貧乏で地位の低い人となる、ということだ」

 

(初編「学問には目的がある」)

 

学問すれば富み、学問しなければ貧しくなる。なんともシンプルな考え方だが、これは。

〇賛同できる点

仮に貧しい家に生まれたとしても、しっかり学問をして実生活にうまく活かすことができれば社会的に成功して、高い地位を得るチャンスもある。

×賛同できない点

「機会の平等」はあくまで表面的な話であって、時代や社会環境には抗えない部分もあるのではないか。
例えば就職氷河期時代に就活をした学生は、どれだけ優秀な能力をもってしても優良な企業に就職することが難しい時代があった。このような事例は個人の努力ではカバーしきれない問題である。

■民間こそが手本となる?
 

「諭したり、手本を示したりというのは、民間でやることである。・・・(中略)・・・いま、自分から官に頼らない実例を見せて、『世の中の事業は、ただ政府のみの仕事ではない。学者は学者として、官に頼らず事業をなすべし。町人は町人で、官に頼らず事業をなすべし。政府も日本の政府であり、国民も日本の国民である。政府を恐れてはいけない、近づいていくべきである。政府を疑うのではなく、親しんでいかなければならない』という趣旨を知らしめれば、国民もようやく向かっていくところがはっきりし、上はいばり、下は卑屈になるという気風も次第に消滅して、はじめて本当の日本国民が生まれるだろう」

 

(第4編「国民の気風が国を作る」)

 

〇賛同できる点

最近は幾分元気がなくなってきた感もあるとはいえ、世界に君臨するリーディングカンパニーが我が国にいくつもあるのは誇らしい。官との結びつきをほとんどもたず、自主自立で日本を代表するようになった企業もある。まさに民間の力だ。国がやることには無駄も多く、身動きもスムーズではないと感じることもある。


×賛同できない点

手本になるとはいえ、民間は良くも悪くも合理的な手段に打って出ることがある。
経営状況が苦しければ、ときに非情なリストラを行うこともある。

さきほどの就職氷河期のたとえではないが、その民間のドライさまでを官と比較して評価するべきでもないと思う。

■苦学してでも学問すべき?
 

「生計を立てるのが困難である、とは言っても、よくよく一家のことを考えれば、早く金を稼いで小さなところで満足するよりも、苦労して倹約し、大成するときを待ったほうがよいのだ。学問をするならおおいに学問すべきである。農民ならば、大農民になれ。商人なら、大商人になれ。学者ならば、小さな生活の安定に満足するな。・・・(中略)・・・麦飯を食って、味噌汁をすすって、文明の事を学ぶべきである」

 

(第10編「学問にかかる期待」)


〇賛同できる点

別の箇所で福沢が述べていることでもあるが、僕自身はどれだけ勉強が嫌いでも、いわゆる「読み書きそろばん」はできないと人間としてはNGだと思っている(特定の病気や障碍などでどうしてもという人は除く)。

コンビニで買い物するなら、かごに入れた商品の合計を概算できないといけない。定価以外に税額8パーセントのものと10パーセントのものが混在しており、意外と買い物にも神経を使う世の中なのだ。

だからどんな生き方をしようとも、最低限の学問が必要なことは同意。

×賛同できない点

ここの福沢の言葉を受けて、言い方は悪いが「猫も杓子も大学に」的に考えてしまうとまずい気がする。

いわゆる「Fラン」の存在価値を否定するつもりはない。ただ高い授業料を支払いながら学問をしない学生が出てしまうことが問題だと思うのだ。
 

※福沢の慶應義塾は超難関だ。

 

 

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第17編で「人望と人付き合い」についての福沢なりのアドバイスが興味深いと思った。

具体的には「弁舌のすすめ」「見た目の印象も重要」「交際はどんどん広げよ」という3点である。

「文字を書いて考えを知らせるのは、もちろん有力な手段で、手紙や著作についての心がけもなおざりにしてはいけないけれども、身近な人に自分が思ったことをただちに伝えるには、言葉以上に有力なものはない」

「表情や見た目が快活で愉快なのは、人間にとって徳の一つであって、人付き合いの上で最も大切なことである。・・・(中略)・・・世界ではフランスを文明の源といい、知識が広まる中心地とされているが、その原因を考えてみると、フランス国民の振る舞いが活発気軽であって、言葉遣いも表情も親しみやすく、近づきやすい気風があるというのがその一つなのである」

「交際の範囲を広くするコツは、関心をさまざまに持ち、あれこれをやってひとところに偏らず、多方面で人と接するところにある」


最後にこれらの言葉を引用したのには、ちょっとした意図がある。

弁舌さわやかでコミュニケーション能力が高く、人脈がある。これってつまり、「慶應ボーイ」「慶應ガール」の特徴じゃないか!

教育は理論だけを振りかざすものではなく、実践がともなってこそのこと。
そういう意味で慶應義塾は、創立者福沢諭吉の息吹がきちんと受け継がれている学校であるなあ、というのは外部から見ても思う。
(ここまで擁護しておきながら、僕は慶應出身ではない)

大隈重信にしろ津田梅子にしろ、創立者の想いが連綿と受け継がれている学校には、他にはない独特の気風がある。それが私学のいいところだとあらためて思う。最後は少し余談になった。