-「われ思う、ゆえにわれあり」など、たわけたことを言うな。悩んでる暇があるなら、とりあえず行けよ。行けばわかるさ-

高校生の頃、『高校生でもわかる哲学』的な?本を読んだとき。

デカルトは昼過ぎに起きて暖炉部屋で一日中思索にふける生活をしていたと知り、当時受験勉強に追われていた自分にとって、「デカルトの生き方って、なんて理想的なんだろう」と思った記憶がある。

『方法序説』をちゃんと読めば、デカルトは従軍してるし、何よりすごいインテリであるから(数学者でもある)、いわゆる怠け者とは程遠いイメージの人物だったようだが。。。

おまけに女性からとてもモテていた、なんて逸話もある。

 

 

 

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大昔に読んだ『方法序説』をもう一度読みなおし、解説書類も適宜参考にしながら、この本での論点をまとめてみたくなった。

有名な「われ思う、ゆえにわれあり」の発見と、そこからの導きの手順は以下のようになる。

①人間の「認識」というものはどうも疑わしく、あらゆるものが疑えてしまう。
自分が正気のつもりであってもただ夢を見ているだけかもしれないし、何か悪いものに憑りつかれて誤ったものの見方をしている恐れもある。



②そのように「ああでもない」「こうでもない」と、あらゆるものを徹底的に疑ってみる。




③一体何がホンモノで何がニセモノなのか。自分の「認識」とは一体、何なのか・・・。
しかしその「疑っている」自分だけは、どうしたって存在する。
ここで、「コギト・エルゴ・スム(われ思う、ゆえにわれあり)は発見された。



④ところで「われ思う」自分は、「神」という存在を知っている。



⑤そんな「神」は「完全で無限な存在」である。対して自分は「不完全で有限な存在」である。なぜ「不完全で有限な存在」である私が、「神」を知ることができるのか?



⑥その能力は「不完全で有限な存在」である私を超えた外部の存在によって与えられたと考えるのが合理的だ。ゆえに、そこから「神」の存在が証明できる。



⑦「神」の存在が証明できた以上、その「神」は世界を合理的かつ整然としたものとして創造した。そしてそんな素晴らしい「神」は、人間に悪意をもってでたらめな認識を植え付けたりしないだろう。



⑧だから人間がきちんと目を覚ました状態で認識した結果は、常に正しい。

・・・大体、こんなところか。

どうも煮え切らない感じがいっぱいある。よく指摘されるように、④のところでいきなり、「『神』という存在を知っている」といわれても?となるのがオチだし、そこから認識の正しさを導くとなると、論理的というよりもこじつけに近い気さえしてくる。

ここで「神」をあえて、「自分よりもはるかに大きな存在」などと考えてみると、

「『自分(小)』が『自分よりもはるかに大きな存在(大)』を知るということは論理的には不可能なのだから、その『大』によって『大』を知る認識能力を与えてもらえたと考えるのが自然だ」ということになりそうだが、なんとも・・・。

 

このあたりは、「デカルトの循環」とよばれるものに関係があるかもしれない。
ググったら参考になりそうなことが書かれたサイトを見つけたので、貼っておく。
「デカルトの循環」(g) ・・・ デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑧

 

 

 

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こんな感じで書いたが、『方法序説』自体は岩波文庫版(谷川多佳子訳)では巻末解説を含めても137ページ。

分量的には比較的、初心者でもとっつきやすい部類に入ると思う。

新たに哲学科に入学された学生さんはもちろんのこと、哲学に興味をもつあらゆる人々には、まずこの本を読まれることを個人的におすすめする。

なにせデカルトは「近代哲学の父」だ。
彼を基点として、そこに対抗するイギリス経験論や後代のドイツ観念論が盛り上がってくるということを考えても、『方法序説』の重要性は高い。

ただし前述のとおり突っ込みどころ満載の本でもある。

容易な解説書を脇に置きながら、気軽に読み進めていくほうがいいかもしれない。

「うーん、デカルトはこんなふうにいってるけど、これちょっと無理あるよね?」とか、「理性、理性といってるけど、ほとんどデカルトの思い込みなんじゃね?」とか。いろいろ疑問が浮かんだりしたら、もうそこから哲学は始まっているのではないだろうか、とも思う。