ここに来るまでの間に、みんな色んなことを経験している。

 

そこにはたくさんのドラマがあり

大きい小さいに関わらず、傷ついたこともたくさんあったことと思います。

(全部貴重な、素晴らしき体験。)

 

そして、

今もなお、過去に経験した傷を抱え苦しんでいるなら

どうゆう仕組みで起きているのか知るのもまた有益かと思います。

(選択肢が増えるから)

 

 

もう過ぎたことなのに、今この瞬間は何も起きていないのに

過去の傷が癒えぬまま過ごしているのは何故なのか?と言うと

 

①〝あなた自身が納得していないから〟

とか

②〝自分の気持ちをしっかり聞いてあげてないから〟

とか

③〝いつまでも外側を責めているから〟

ということが「ある」からなのですね。

 

「誰かを悪者にし、そこにフォーカスし続けているから」

とも言えます。

 

 

誰かとの関係の中で、自分が傷つくということが起きた時

相手がどんなに嫌なやつか、とか

相手がどんなに非常識か、とか

 

相手を悪者にして自分を守るということが自然と起こったりしますが

(コレ↑人間として普通のこと)

 

それで心底納得できるなら(内なる姫が)それでいいのですが

そうはならずにモヤモヤを引きずったり、何年経っても傷が癒えなかったり

または、同じ現象を繰り返したりということが起こって

尚且つ、そこから卒業したいのなら

 

相手が悪いから、相手が悔い改めるのを期待したり

相手がどんなに悪いかを話し続けたり

相手を変えようとしたり

ということを手放していかなくてはいけないのですね。

 

 

ここで、今一度心に刻んでほしいことがあります。

「相手が変われば私は楽になる」は錯覚です。

 

自分の気持ちは、自分じゃないと満たせない。

自分の気持ちは、自分じゃないと認められない。

自分の気持ちは、自分じゃないと満足させられない。

 

自分の気持ちを深く理解してあげられるのも自分しかいない。

 

それは、自分を苦しめているのは自分(の考え)とも言えてしまいます。

(責めないでね、今の地点というだけです)

 

 

人をコントロールすることはできない

ので、そこは諦めること、その考えは手放すことをオススメします。

 

勿論、過去の私もそうでしたが

相手の考えを変えたい、相手の行動を変えたいと

相手を変えることに必死になる、ということが起きているなら

そこも良い悪いとジャッジせず俯瞰して見ていきますが

 

自分以外の何かを変えようと必死になることは

本当にオススメしません。

 

とっととやめた方がいい。諦めた方がいい。

方向転換した方がいい。

 

 

前記事で「私はどこにもいなかった」と書きましたが

自我視点から見ると、私の視点、私の感覚しか感じられないわけですよね。

 

相手の感情が見えても、それも「私」が感じていること。

 

それが自我で言う「私」じゃなかったということなのですが

どの言葉を使って表現したらいいかわかりませんが

 

あ”---、本当にどの言葉を使えばいいか分からないんだけど

 

相手を批判し続けたりとか、外側(現実)を変えようと必死になったりとか

そこにエネルギー注ぐのではなくて、そこを生きるのではなくて

 

自分の内側を生きる

=自分の心の納得、自分の心のお世話、自分の気持ちの味方になる

というところを生きる。

あなたが傷つくことになった相手、

心の投影とか学びとか色々あるけど、それは一旦横に置いといて(気づきも完璧なタイミングで起こるから)

そんな相手は放っておいていいし、変えようとしなくていいし

「まあ、色んな人がいるよねー。色んな価値観あるよねー。」とバサッと切っていいし(心の距離間)

 

人を変えることや、現実に注力するよりも

自分の気持ちに注力した方がいい。

 

傷ついた気持ちを全部「そうかそうか」と聞いてあげるとか

「で、これからはどうしたいの?」と聞いてあげるとか

「いいね、いいね」って応援してあげるとか

「こんなのはどう?」って提案してあげるとか

 

自分の気持ちが和むように、自分の緊張が解けるように

自分が納得できるように

「もういいや」って抵抗を手放せるように

自分にとっての真実に歩き出せるように

 

こっち↑に注力した方が

あなたのためになる。

 

 

自分の思い込みに気づき替えるのも自分の気持ちのため

(どっちが好きか?どっちが心地いいか?)

相手を変えるためじゃない。

 

 

人や現象が私の幸せを左右する

という錯覚を知るのだ٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

それは錯覚だ

気のせいだ

 

心の平和、幸せは

「今ここ」あなた1人で作りだせるもの。

 

どこを見ているか?

在り方

 

自分に対する在り方なのです。

 

 

koto