つづきです
1、自分の声を聴く
③「嫌だ」の裏側にあるもの
これはエイブラハムの教えとHappyちゃんから教えてもらったHappy理論をそのまま貰ったもの。
これも知らなかったよね。
それまでは嫌なことがあると当たり前に
〝嫌なことにフォーカスして〟→〝それを変えようとしていた〟
これがいわゆる「悩み」というものなんだけど
極々当たり前に、極々自然に
・それがどんな状況かを話し
・それがどんなに嫌かを話し
・それがどうしたら変わるかを相談する
自分を変えるなんて発想は生まれず
そこには「自分=正義」で「外側=悪」や
「自分=被害者」で「外側=加害者」という構図があり
勿論、これがダメということではなく
これも1つの遊びなので、何をやっててもいいのですが
エンドレスで繰り返されるこの遊びに飽き飽きした人は、そろそろ本気で「自分の声を聴く時」が来たのです。
それは、嫌なことの裏側にある本音、望まないことの裏側にある望み、その自分の声に耳を傾けること。
どうすれば現実が良くなるか?に頭を使うのではなくて
自分の本当の声を聴くこと
なのですね。
HAPPYちゃんの言葉をそのまま使わせてもらうと
「それがどんなに嫌なのかはわかったから、何がいいかを言いなよ!」
ってこと。
嫌いなパクチーのこと語るのやめて、好きなもの頼みなよ!ってこと。
エイブラハムの言葉を使うと
「あなたが語るストーリーを変えていかなければなりません。」
ということですね。
・私は何が好きなのか?
・私は何が欲しいのか?
・私はどうしたいのか?
・私は何に嬉しくなるのか?
視点を変えて、それを見てみるということです。
※嫌な現実は、本当に語り続けない方がいい。
これを「現実は無視」「現実はスルーする」とも言いますが、どんなに嫌かを語り続けることは「それをちょうだい」と言っているようなものなのです。それが繰り返される。
–ここで、koto流–
私も、嫌なことがあると「じゃあ私はどうしようか?」とか「じゃあ私はどうなったらいいと思っているんだろう?」とか内観しますが
内観するとね、「望むこと」と「望まないこと」が両方見える位置に立ちますよね。
頭の中で、意識の上で、そのどちらも「ある」
両方見えている。
これ、気質にもよるのだと思いますが
〝私は〟「よし!望むものに一点集中〜!」ってやらない方が上手くいく確率高い。
どういうことかと言うと、
俯瞰して見ることだったり、ありのままにしておくだったり、流れに任せるだったり
〝ニュートラルな状態でいること〟
例えると
パッと望まないイメージ(=思考A)が浮かんでも、その隣に同じように望むイメージ(=思考B)も浮かんでいる
AとB両方浮かんでてOK、Bだけ浮かぶも良し
だけどAだけ浮かぶにはせず、Aを浮かばせたらBも「あるな」と隣に置いておく感じ。
色んなパターン、色んな可能性が「ある」よねってしておく感じで、後は委ねる(忘れるでもいい)
※委ねるってのがやっぱり最強だなと思うんだけど、その話はまた別記事にて。
④内観
また、自分の声を聴くとは、内観と言われるものも含みます。
時に
・何でそんなに嫌なのか
・どうしてそんなに嫌なのか
・何でそう思うのか
・いつからそう思っているのか
・それは本当か
などなど
自分を知るため、自分を理解するため、頭の中を整理するため
自分から溢れてくる言葉、思考、その一語一句に真剣に耳を傾ける。(私は紙に書き出す)
それは、自分を正すためでもなければ、自分を責めるためでもなければ、自分を罰するためでもなければ、自分を律するためでもなく
勿論、人を責めるためでもない。
自分も、人も、誰かを悪者にするためではない。
(誰も悪者にしない。敵はいない。)
自分を理解し、認めるため。
「そうかそうか」と「そうだったのか」と「頑張ったね」と労うため。
そして、「今まではお疲れさんだったね、じゃあこれからはどうしようか?自由に生きていいんだよ、ああしてみる?こうしてみる?」と自分の本当の要望を聴くため、自分に寄り添うため。
そのために自分の声を聴きます。
自分から湧き出る声は自分にとっての宝物
邪気に扱うことのないように。
聞こえないふりすることのないように。
頭の中の声(エゴ、思考)の方が大事としないように。
宝物として丁寧に優しく扱っていきましょう。
koto