徳川(松平)草創期に登場した松平親氏、泰親、信光三代については残された史料が少なくその実像は霧のかなたにある。さらに徳川松平中心史観による創業譚の改変で、ますます解らなくなってしまった。しかし家康にいたり我が国の盟主となった徳川・松平氏の歴史を語る上で、創業譚の解明は避けて通れない問題である。
本書では大久保彦左衛門忠教の「三河物語」や昭和に入って新たに発見された松平宗家家老神谷家に伝わる「松平氏由緒書」、あるいは他の史料などを参考に、謎に包まれた松平草創期の実像に迫りたい。
大久保彦左衛門忠教
松平家の歴史は三代松平信光の頃から史料にその名が出てくる。初代とされる松平親氏、二代とされる松平泰親については確実な史料が存在しないとされる。
最も古い時代に親氏、泰親の事跡を語ったと信じられてきたのは大久保彦左衛門忠教が著した「三河物語」で、幕府が編纂した徳川家史書の多くも草創期の事柄については「三河物語」を底本とし諸家に伝わる伝承を加えて作成された。
大久保彦左衛門忠教は永禄三年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた年に誕生した。
大久保一族は、忠教の兄大久保忠世、忠佐とともに徳川軍団の柱石として働き江戸幕府成立後は重く用いられたが、大久保長安事件(慶長一八年(一六一三年))に連座するなどして一族が衰退すると、彦左衛門忠教は、常陸国鹿島に三百石ほどの小禄を食み、失意の中隠棲した。
「三河物語」は、そのような状況の中で元和八年(一六二二)頃から執筆が始められ、現存する自筆本が完成したのは寛永三年(一六二六)である。忠教は寛永一六年、八十歳で没した。
この間、三代将軍家光の五千石加増の申し出を断るなど、幕府の冷遇に反発する武骨で一徹な戦国武将の生き様を貫いた。
忠教は、家康の戦いのほとんどを自身で見聞きしており、彼の性格からして、内容に一定の真実味が感じられるが、神君家康の時代を敬慕する余り、一族衰退を座視した二代秀忠、三代家光体制への無言の反発が感じられる。