家康は桶狭間の戦い(永禄三年・一五六〇年)で今川義元が敗死して三河一国の領主に返り咲いた頃から任官運動を開始した。領主として国人を従え、隣国と対等な外交を行っていくためには、正式な官位を取得する必要があったのである。

当時松平家には氏素性と呼べるほどのものが無かった。藤原なのか、源氏なのかも定まっていなかった。

「え?」と思われた方は歴史に詳しい方である。家康の先祖である三代信光は、室町幕府政所執事として権勢を振るった伊勢貞親の被官になり、従五位下、和泉守の正式な官位を得ている。これは昇殿の許される高い官位で、相応の家柄に連なるものでなければ与えられなかった。当然官位申請に当たり信光は、幕府、朝廷の吟味に耐え得る系図を提出したものと推察される。

しかし不思議なことに、その信光の直系子孫である家康は、このとき信光が使った系図を利用せず、まったく新しい系図作りに躍起になったのである。

家康(当時は松平元康)は、元来我が家には源氏の名族新田につながるという伝承があったと主張して、これをもとに家康がつくりあげ、朝廷に提出された系図は、松平の名前では先例が無いという理由から、時の正親町天皇により却下されてしまった。

つまりこの時点で、松平氏が在原氏の末裔説、あるいは加茂氏説は朝廷によりはっきりと否定されたことになる。

あわてた家康は(恐らく大金を払って)神祇官の吉田兼右に周旋を依頼し、吉田は八方手を尽くしてそれらしい系図を探しまわった。たまたま万里小路家にあった旧記から先例を探し出し、吉田はそれを鼻紙(懐紙)に写し取って帰り、立派な系図をこしらえ家康に渡した。

このことは前の関白近衛前久が慶長七年に子の信尹に宛てた書状で、事細かに暴露している。近衛前久は家康の永禄九年の任官問題に深く関わり、この系図を朝廷に執奏して勅許を取り付けた当事者であることから、この書状の内容は信用できるものと考えてよい。

永禄九年(一五六六)十二月、ようやく家康は従五位下三河守の朝廷官位に叙任され、あわせて家名を松平から徳川に改めることを勅許された。以上の経緯から、研究者の間では徳川家が新田義季の子孫云々であったという話しは、ほぼ否定されている。

それにしても、なぜこのとき家康は、信光が官位を取得するに当たり幕府に提出した系図を利用しなかったのかが謎として残る。大金を積んで新たな系図の創作、つまり偽系図などをわざわざ作らなくても、先祖に堂々と官位を取得した者が居るのなら、その系図の何代か後に自分の名を書き込むだけで済むのに、なぜ家康はそうしなかったのかという疑問が残る。