信光が伊勢氏の被官になった年代は伝わっていないが、益親の活動時期から推定することが出来る。信光の縁者とされる松平益親は、琵琶湖の北岸に位置して中世の惣結合で有名な菅浦荘(滋賀県伊香郡西浅井町)に、嘉吉三年(一四四三)から応仁元年(一四六七)の間に姿をみせている。これは益親が日野家領菅浦荘日差・諸河、および大浦荘の代官であったためである。その一方、益親は子勝親とともに長禄年間(一四五七~五九)より京都にあって、高利貸的活動を相当大規模に行い、京都市中や近郊、あるいは摂津国にまで所領を買得したり、担保にとっていたりしていたことが記録に残る。その下限は文明一五年(一四八三)にいたっている。
都での益親当初の活動は、松平氏からの援助があったものと推定されるので、松平氏勃興の時期と重なるものと思える。
寛正二年(一四六一年)に近江で菅浦荘騒乱が起き、信光は三河から兵を送った。これが公式な記録に残っており、益親と信光が親族以上の関係であったことを示している。
嘉吉元年に松平太郎左衛門家に婿入りした徳阿弥は寛正二年(一四六一年)までの間に幕府中枢を通じ朝廷に対する叙任活動を行った。
婿入り後信武と名乗った徳阿弥は、松平信盛、信重が築いた財産を惜しげもなく使い、周辺の領地を買占め益親を京都へ送った。益親は京の都で金貸しを行い成功した。そして益親は京の金融を支配していた日野家と繋がりを作った。益親の有能さは日野家の認めるところとなり近江大浦荘の代官に抜擢された。信光は日野家の代官になった益親を通じ、日野家の庇護した伊勢貞親に接近することが出来たものと考えられる。
⑳その後の松平氏
系図作成に協力し、信光を援助した山田貞俊の父山田貞幹は、足助の鈴木氏から、山田氏へ、養子に入った人物である。
松平を出て岩津に進出し、矢作川を上る塩と、下る木材に通行税を徴収した信光は、九久平とは比較にならない大きな収入を得るようになった。
この頃信光の三男親忠は、鈴木重勝の娘(閑照院殿)を正室に迎え、信光は鈴木氏との関係をさらに深くした。同時にこの事実は松平氏が鈴木氏から嫁を迎えられるほどに力を蓄えたことを示している。
松平氏と鈴木氏の力関係の逆転は、信光が幕府最高権力者政所執事伊勢貞親の被官になった頃から決定的となった。
松平益親は、京都で金融業を営む傍ら、八代将軍足利義政の正室日野富子の、近江菅浦荘の代官を請負い、徴税使のような仕事をしていた。