系図作成に協力し、信光を援助した山田貞俊の父山田貞幹は、足助の鈴木氏から、山田氏へ、養子に入った人物である。
松平を出て岩津に進出し、矢作川を上る塩と、下る木材に通行税を徴収した信光は、九久平とは比較にならない大きな収入を得るようになった。
この頃信光の三男親忠は、鈴木重勝の娘(閑照院殿)を正室に迎え、信光は鈴木氏との関係をさらに深くした。同時にこの事実は松平氏が鈴木氏から嫁を迎えられるほどに力を蓄えたことを示している。
松平氏と鈴木氏の力関係の逆転は、信光が幕府最高権力者政所執事伊勢貞親の被官になった頃から決定的となった。
松平益親は、京都で金融業を営む傍ら、八代将軍足利義政の正室日野富子の、近江菅浦荘の代官を請負い、徴税使のような仕事をしていた。
伊勢貞親を庇護していたのが、この日野富子である。
寛正二年(一四六一年)に近江で菅浦荘騒乱が起き、信光は三河から兵を送った。
そして寛正六年(一四六五年)額田郡一揆が勃発する。
これが信光が歴史に登場する最初である。
徳阿弥という名で各地を放浪し、松平郷太郎左衛門家に入り婿してから二十四年。年齢も五十を越えていた。この間信光は満政流清和源氏の一門で、名族尾張源氏山田一族の血を引くものとして世間に振舞っていた。父の名は親氏、叔父の名を泰親と称していたので、後世この名が歴史に残ることになった。
寛正六年五月二十六日付で伊勢貞親から信光へ、額田郡一揆鎮圧の出陣要請が届き、信光は戸田氏と共にこの一揆を鎮圧した。
同じ寛正六年(一四六五年)京都では、義政の正室日野富子が男子(足利義尚)を産むと、伊勢貞親は義尚の乳父となった。
ところがその翌年、文正元年(一四六六年)に政変が起き、信光の後ろ盾だった伊勢貞親が突然失脚する。
次期将軍に決定していた義政の弟足利義視と、その後で生まれた義尚の間で将軍後継問題が発生し、義尚を推した貞親が敗れ、貞親は、日野家の領地のある近江に逃走したのだ。
さらに翌年、応仁元年(一四六七年)一月、応仁の乱が発生し、この乱は文明九年(一四七七年)まで十年間も続いた。
近江に隠棲していた伊勢貞親は足利義政によって呼び戻され、再び政所執事に返り咲いたが、往時の権力には翳りが見えていた。
信光が安祥城を手に入れ、畠山氏の末裔、和田氏の影響下にあった大浜湊を手に入れたのが文明三年(一四七一年)、信光五十八歳の時だから、応仁の乱の真っ最中である。
和田氏は、当時三河最大の交易港大浜を所領のうちにし、活発に商業活動を行っていた時宗教団の寺「称名寺」の庇護者として東海道、三州街道の流通に大きな影響力を持っていた。
大浜は三河湾一帯に広がる製塩地帯の湊として栄え、ここから矢作川を舟で上り、岩津、九久平、足助、武節を経て、信州まで三河の塩が送られていた。
ちょうど織田氏が津島湊を手に入れた後、飛躍的に発展したように、応仁の乱の混乱を期に、信光は安祥和田氏を追い払い、大浜湊を押さえたことにより、松平氏の経済的基盤を確立することが出来た。
このあと信光は矢作川と東海道が交差する西三河最大の要地岡崎を手に入れ、これにより矢作川水運のすべてを松平のものとしてしまう。
さて、林氏が、世子、諸侯を差し置いて、正月元旦の一番杯を賜るという「献兎賜杯」の話である。
ここまでくればその理由も、もうお分かりだと思うが、林氏が何かをしたということではなく、林氏の縁で武節山田氏や足助鈴木氏から協力を得ることが出来、最後には幕府の最高実力者、伊勢氏にまで認められるようになったことへの、感謝の意を表した行事だと思えば、納得できるだろう。
となると、本当は、むしろ松平氏は山田氏に感謝すべきであろうが、山田氏は一時松平氏の下を離れ、武田や今川に仕えた時期があった。
林氏はずっと変わらず松平の家臣を続けたので、山田氏抜きの正月の嘉儀となったものであろう。
山田景隆の子、川手文左衛門主水良則は、武田家滅亡後徳川家康に臣従し、天正十一年(一五八三年)、井伊直政に付属した。
新参にもかかわらず良則は異例の抜擢を受け、はじめ知行二千五百石、井伊家の筆頭家老となり、関が原合戦前には四千石、士組七十騎御預けとなり、井伊家の主力部隊を率いた。関が原の時は、家康の意向で高崎城代をつとめている。
表面的には、山田一族にはそれほどの働きがなく、そこまで厚遇される理由は見当たらない。
にもかかわらず、井伊家において、異例の四千石という高禄を得たのは、家康直々の声で決まったものだという。
さらに、井伊家では、正月の一番杯は、川手氏(井伊家では川手と名乗っていた)当主が受ける慣わしだったという。これも家康が決めたことだという。少なくとも家康は、献兎賜杯の真の目的を知っていたという証拠であろう。
初期の松平親氏の家臣は、山田、林、加藤、今村という名が伝わる。山田氏も林氏も親氏(信光)の最初の家臣であった。この中で林氏、加藤氏は山田氏に養子を入れており、今村氏には山田貞政の女が嫁し、四氏は、山田氏を中心に、相互の親族関係にある。
信光の家臣に、酒井、大久保、石川などの家臣名が出てくるのは、その後である。彼らの前に現れたときは、すでに親氏は松平信光を名乗っていた。
清康は天文四年(一五三五年)、大樹寺に建立した多宝塔に、「奉為逆修万疋奉加大檀那世良田次郎三郎清康安城四代岡崎殿」と記した。
清康が世良田を言い出したのは、理由がある。
家康の祖父、清康は、大永三年(一五二三年)に家督を継承した。
大永六年(一五二六年)には山中城を攻撃して西郷信貞(松平昌安)を屈服させた。
この時、足助城の鈴木重政を攻めて、これを降伏させた。鈴木氏を攻撃した後、清康は、清和源氏のひとつ、新田氏一門である世良田姓を称し、世良田次郎三郎を名乗り始めた。
清康の代に、松平氏が突然新田の末裔を言い出したのは、山田氏と同族の、鈴木重政を攻撃したことに関係する。鈴木氏とはそれまで同盟関係にあったものを、清康はこの時、鈴木氏を攻め、家臣化してしまったのである。家臣の系図を使用することは出来ない。したがってこの時から、松平氏は、満政流清和源氏、山田氏の傍流であるという系図を使用することをはばかり、世良田の末裔であると言い始めた。
世良田氏も尾張源氏も南朝方の忠臣として知られ、山田氏の関係で、多くの南朝方の家臣を取り込んでいた松平氏にとって、世良田の名乗りは都合が良かったからであろう。さらに家康も世良田の関係を自己の系図づくりに取り入れた。世良田氏は新田氏が衰徴した後の新田系の惣領家になった。足利という源氏長者を乗り越え征夷大将軍の地位を手に入れたいと念願した家康には、清康が使った世良田という名が好都合だったのだ。