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Kotenjiのブログ

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後天時代の本当の意味と価値を理解し、ふさわしい生き方をしたい。
正午定着、影のない時代と言われているが...

この運動の最初の動機は、人類とこの世を救うことと、そのためにも自分自身が真の愛を持った人間になり、真の愛に溢れた家庭を築くことが目標だったはずであり、この運動に触れて参加した人々も、その点にスパークして参加した人が多かったのではないかと思います。

その出発点には、真実さと真摯さがあったはずであり、そうでなければ人はそこに惹かれることはなかったでしょう。

それが、運動が拡大していく中で、いわゆる「組織」ができていくに従い、真実さ、真摯さ以外のものが、それに取って代わるようになったのだと思います。そして、その当然の結果ですが、真実さ、真摯さは、もはやこの運動から醸し出されることはなくなり、むしろ、その取って代わったものが感じられるようになっていったのではないでしょうか。

その取って代わったものの例は、例えば、ある特定の人物を神様もしくは神の如き絶対なる方と規定することにより、その絶対なる方に服従することに最高の価値が置かれるようになったこと。そういう運動を周りから見れば、いわゆるカルト的においがしても仕方ありません。

その人物が真に全人類のためのメシヤ的存在であるならば、理論的に言っても当然その方は全人類のために生きる方であり、「君たちは私のために生きよ」というような方であるはずがありません。その行動も「私がメシヤだから私を拝め、あがめよ。私に絶対服従せよ」というものになるはずがありません。そして、本当にメシヤ的な知恵のある方であるならば、そのような生き方では自分の本来の使命を果たすことはできないことなど簡単にわかるはずです。

「真の愛による自然屈服」という表現は、メシヤ的使命を全うできる可能性を示していると思います。ただし、真実に実践された場合にはです。それは簡単に言えば、様々なレベルの迫害を越えていく中で、個人のレベル、家庭、氏族、民族、国家、世界、それぞれから打たれて、それでも真の愛を実践し続けながら、最後には打った立場の人が自然屈服(例えば、私はあなたをこんなにも攻撃したのにあなたは潰れず、しかも私を生かすために真の愛の道を歩み続けました。あなたには負けました。と言って受け入れてくる)することにより、最後には全ての人から、「あなたは私を救ってくれました」と感謝で受け入れられるようになる。

私は、文先生によって説かれたそのような生き方は宇宙の真理にかなっていると思いますし、すべての人がそれを実践できるようになれば、世界は変わる可能性があると思います。その実体の見本を示してそういう道を開拓するのが、本来文先生が歩もうとしておられた道であると思います。

しかし、物事はそんなに簡単なものではなかったという話でしょう。あまりにも複雑な要素が絡みすぎて、「人類のために存在するメシヤ的使命」や、「真実さ」「真摯さ」といったものよりも、上に述べたような「別のもの」を優先するようになった結果、そのようないわば「カルト」的なにおいがぷんぷんするものができてしまったのではないかと思います。

ゆえに、現在その流れの中で出てきているものは、皆そういうにおいがしています。真実を求める真摯さではなく、自分が正しいという前提を既に深く思い込んだ立場で、それを少しでも否定する者に対しては適当なレッテルを貼って見下げ、自画自賛の独善的主張の宣伝に汲々とする。そこにはいわゆる普通の宗教であればその中に普遍的に見られるような、思いやり、慈悲心、思慮深さ、謙虚さ、感謝などの基本的な要素が見られなくなります。ある意味では統一ブログ村が醸し出している香りは、まさにそのようなものだという気もします。

以前も書きましたが、いわゆる「選民意識」というのも、人類の救いに責任を持った立場に対する自覚による誇りと矜持として現れるべきであって、自分は正しく人は間違いという独善と傲慢になってはならないと思います。

ともかく「神の血統」というものがあるなら、その結果として現れるはずのものは、「人類のために存在するメシヤ的使命」「真実さ」「真摯さ」や、「真の愛による自然屈服」などの具現化として現れるべきであって、そうであるならば残り、そうでないものは淘汰されていくことでしょう。

結果の現れてくるべき時代において、いわゆる「祝福家庭」という立場の人がどのような使命を持っているのかという問題が、「祝福家庭」という自覚を持った人ならば真摯に取り組むべき問題であると思います。自分に不都合なものには適当なレッテルを貼って、それにまつわる不都合な真実の是非を追求しようとする努力を怠ることを選択し、自分の奥深くにある「良心」に蓋をするとすれば、あとで「怠慢」だったと嘆くのは誰なのかを考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 

ともかく、大事なことに関しては、自分の頭で考えるかわりに、人に考えてもらった結論を信じて人任せにするのは結局「怠慢」ということであり、自分の良心に対しても不誠実ということになると思うのですが。


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