キング牧師と基元節 | Kotenjiのブログ

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後天時代の本当の意味と価値を理解し、ふさわしい生き方をしたい。
正午定着、影のない時代と言われているが...

今年の1月15日のキング牧師の誕生日は、いつもと違った印象で迎えました。

キング牧師が、暗殺される前日のスピーチの中で、自身を民数記のモーセの姿になぞらえながら語っている箇所があります。

「神様は私が山に登るのを許され、私は頂上から約束の地を見たのです。私は皆さんと一緒には行けないかもしれませんが、私達は一つの民として、必ず約束の地に到達するでしょう。」

この説教の翌日に彼は暗殺され、このメッセージは翌日に実現した予言(一緒に行けない)となってしまいました。

お父様は、神様の主権の復帰された国を迎え、その主権のもとでたとえ一日でも一瞬でも過ごした上であちらの世界に行きたい、と語られていたのを憶えています。その後その日を特定され、そのしばらく後にはその名を「基元節」と呼ばれるようになりました。ところがそういう中で、その日を迎える直前になって忽然として逝ってしまわれました。なぜかその姿が、キング牧師の説教と重なってしまいました。

この基元節をどのように迎えたかったお父様なのか、あるいは神様は、息子娘達を思いながら、その日をどのように迎えさせてあげたいと考えておられたのか、各自がみ言葉と祈りにより、「真理」と「神霊」でその日を迎えていかなければならないと思います。

いわゆる(神様に公認された)教会の「傘下」でその日の「宗教的行事」に参加しさえすれば「安心」「安全」と考える方もいらっしゃるでしょうし、み言葉と祈りにより神様との交わりの中でその日を迎えようとする方もおられるでしょう。どのようにするにせよ、その人が神様との間で持っておられる関係が、その人がどのような姿勢でその日を迎えられるかを決定するのだと思います

そして、いずれその人が霊界に移行して行く時にも、自身の神様との関係をそのまま持っていくだけのことであり、その移行の日に何かが突如変わるというようなものでもないと思います。別の言い方をすれば、私達の言動は、全て各自の自由意志による「責任分担」であり、肉身を持って生きている間に、神様との関係において、どこまでその関係を深いところまで築くことができたかによって、それに合う霊界に移行して行くのだと思います。

もっと言い方を変えれば、たとえばブログ村で人をこき下ろしたり非難したりしながら生きがいを感じている人は、霊界に行っても霊界のブログ村のようなところで、全く同じようなことを続けていくのだろうということです。

その人が神様をどのように扱い、神様の子女である兄弟姉妹をどのように扱うかという、いわばその人の真の愛の実践度(そして、その人の幸せ度も)が、そのまま続いて行くだけのことだろうという意味です。


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