若いころですが、復帰の道はつらい道だが、「父母を慕う」ことによって一気に越えていくことができる道がある、という内容をよく耳にしました。言い換えれば、全人類を救うためにはどのような犠牲も厭わないという愛で歴史を導いて来られた神様、そして、そのような神様の心情を受け継いで、全人類の父母となるべく愛を投入しておられる真の父母を「慕う」ことにより、その愛の世界にスパークすることで、越えられないような困難な峠も越えることができるというようなニュアンスであったと思います。
そして、文先生という方は、そのような愛で、当初から自分を殺そうとしてきた金日成主席を始めとする国際共産主義を憎むのではなく愛して、命がけでその生きる道を模索していく中で国際共産主義は終わりをつげ、その只中でゴルバチョフ氏や金日成主席らとも直接面談しながら新しい門を開いてきた方、つまり、万民が標本とすることのできる「愛による救い」の道を開拓して来られた方であると見ていたわけです。その歩みの本質は「愛」の力による人間や体制の変革であったと思います。
つまり、愛の力の重要性、「慕う」ということを強調していたのであり、ある特定の個人を絶対化してその人に「絶対服従」せよ、という話ではなかったのです。
ゆえに、もしも祝福家庭が責めを受けなければならない内容があるとするならば、それは文先生により示された真の愛のパターンを自分自身も歩むことにより現実社会の中において愛の実りを結ぶことが十分にできなかったということになるかもしれません。それは誰それの命令に従わなかったとか、どこどこの組織の指示に従わなかったとかいう話とは次元の異なる話です。
そして今でも、そのような愛の道を追求していく人であれば、誰であっても天運の保護を受けて発展するであろうし、逆に、どんなに立派な「立場」にいる人であろうと、また、口でどんなに美しい言葉や理屈を並べたとしてもそのような愛の道になければ、天運は共にあることができず、いずれは滅んでいくしかなくなるのではないでしょうか。