私の記憶遺産として華やかなりし頃の松尾鉱山をご紹介しております。
 
「雲上の楽園」と謳われた松尾鉱山は最盛期である昭和35年(1960)当時、資本金10億円、東証一部上場の株式会社であった。大正3年(1928)、この会社を興したのが横浜開港以来の貿易商増田屋嘉兵衛の二男、中村房次郎である。この人の写真が額縁に入って ko_ten の家にもあった。
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                     ☝   初代社長 中村房次郎
何んと気品のある顔立ちであろう・・。手元の写真帳に依れば、増田貿易の社長となった中村房次郎は、日豪貿易の先駆者としてオーストラリアへの進出を企て松尾の硫黄が輸出産品に加えられた。以来、松尾鉱業の事業化を進め、大きな利益をもたらすことになった。房次郎は松尾鉱山以外にもさまざまな事業を興し、政財界の各方面にも関係した。他に、早稲田大学維持員、横浜商工会議所副頭などを務め重厚温篤の風格・信望の厚い人物であったと云う。
 
松尾鉱山の事業を受継いだのが、早稲田大学出身の次男、正雄であった。
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             ☝   初代・二代社長のツゥーショット  昭和13年鉱山の山神社頭にて 
因みに、写真帳に早稲田の関係者にとっては興味深い記述がある。曰く、中村正雄の妻は、早稲田大学野球部の創始者、安部磯雄の次女、京である。正雄は早稲田大学在校中野球部の選手であり、部長の安部とは昵懇の間柄であった。人道主義的傾向が強かった安部が、〝資本家〟中村房次郎の子息に愛娘をめとらせたことは世間の注目の的となった。このことについて京は、「実父の磯雄が房次郎の人柄をよく見抜いていたからでしょう」と語っていたと云う。
 
今でこそ硫黄は公害発生の元凶となる嫌われものだが、当時、硫黄を産出する松尾鉱山は日本の最重要産業の一つであったのだろうと思う。その為か、多くの要人が来山した。
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☜  高松宮が施設を視察
    昭和27年3月
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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            三笠宮  ☞
 
 松尾鉱山鉄道、屋敷台駅にて
        昭和29年9月
 
 
 
 
 
 
 
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      ☝  海軍大将 米内光政    屋敷台駅到着  昭和16年5月
米内光政は同郷、岩手県盛岡の出身。米内は海軍内の条約派として山本五十六、井上成美らと三国同盟、日米開戦に反対。その後、最後の海軍大臣として日本を太平洋戦争の終戦へと導くことに貢献した。
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      ☝    米内海軍大将と中村正雄(当時常務取締役)
坊主頭が当然とされた日本の軍隊で、米内は髪をポマードで整えて七三に分けていた。米内は坊主頭が海外では囚人の髪型であることを知っており、海外と直接接する海軍軍人の髪型としてふさわしくないと云う理念からであったと云う。
 
■米内は海相として太平洋戦争終結の道を探った。天皇の真意は和平にあると感じていたからで、5月末の会議では阿南惟幾陸軍大臣と論争し、「一日も早く講和を結ぶべきだ」、「この大事のために、私の一命がお役に立つなら喜んで投げ出すよ」と言い切ったと云う。
 
国難に際して、この意気、この精神をカンは見習うべきである・・。二階に上げて梯子を外し、シテヤッタリと云わんばかりの満面の笑顔。サギだ、ペテンだと云われながらも、もう馬耳東風。人間、何が大切かと云えば、どこでも、誰でもウソつかない、裏切らない・・である。「信義誠実の原則」・・が基本である。この原則が無いカンは事にあたる資格が無いっ。 (後述:カンとは菅直人のことである)