義母とのお別れ | ノン・リン・ニョロ子の「のんほい日記」

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ほどほどに仲良し三姉妹と、
まずまずの仲の両親との5人で、
毎日そこそこ楽しく暮らしてます♪

ずっと独り暮らしだった義母が

認知症になり、

2012年から2015年の春まで、

北九州で一緒に暮らしました。

 

その後、私たちは仕事の都合で愛知に戻り

義母は北九州で施設へ入居。

会いに行けるのは、年に数回でした。

 

同居していた時、

認知症が進みゆく母親を見て、こて夫は

「母とは、毎日少しずつお別れしているようなもんだ」

口にしていましたが、

記憶と別れ、やがて意識と別れ、

徐々に弱ってきた身体がその役目を終えて、

終の別れとなりました。

83歳でした。

 

認知症初期の頃は、

不満や怒りが現れることもありましたが、

優しくて、気品がある義母の本来の姿は、

病気が進み意思疎通が難しくなった後でも、

その表情やちょっとしたしぐさに宿っていました。

 

 

私が好きなエピソードはこれ↓

 

私とこて夫の出会いは青年海外協力隊で、

私が初めて義母と会ったのは、

2003年にジャマイカから帰国し

こて夫の実家を訪れた時。

 

お義母さん手作りの夕飯を

いただいたのですが、お刺身に

添えられた「しその穂」について

「花がずいぶん咲いちゃって・・・

少し採る時期が遅かったようで、ごめんなさいね」

と言われ、

いったい何をおっしゃっているのか、

しその花の咲き具合に現れる細部の風情など

解さない田舎娘の脳内に、

ハテナマークが炸裂したことを思い出します。

 

また「味噌汁の出汁は何でとりますか?」

と聞かれ

「出汁は、だいたいパックですね。

時々、昆布とか鰹もあります」(←年に数回)と答えたら、

「そうですか。鰹節もいいけれど、

あれは削るのが一手間ですねぇ」

言われたことも忘れられません。

 

鰹節に関しては、幼い頃、

鰹の塊を削り器で削るお手伝いをした記憶が

あったので、ハテナマークは炸裂しませんでしたが、

「えーーーっ、鰹節パックじゃなくて、

今もいちいち削ってらっしゃるんですか?

まだ売ってるとこあるんですねぇ。すごーい」

と驚いた私のリアクションは、

さぞ品がなかったことでしょう。

 

時間も手間も惜しまず、

丁寧に料理をしていたお義母さん。

 

何がすごいかって、

それを自慢したり鼻にかけたりすることは

なく、人に求めることもまったくなかったことです。

 

その時はまさか、パックで出汁をとる

無粋で粗雑な娘の作る料理を

数年後、毎日食べることになるとは

思いもしなかったでしょうが、

後に同居することとなった3年間、

たったの一度も私の料理に関して

不満を口にすることはありませんでした。

 

見栄を張ることもなく、

謙虚すぎることもない。

裏がない。

実直というか、正直というか。

その自然な在り方・生き方は、

自分自身も、また他人に対しても

「ありのまま」を尊重しているように

感じられました。

 

葬儀に参列し、

お義母さんとの日々を思い出しながら、

改めて感じたこと。

義母の性分は、息子であるこて夫に

十分に受け継がれているなぁと。

 

十分どころかやや行き過ぎて、

こて夫の場合は

見栄を張らないだけでなく、

社会的にある程度必要な「建前」さえもない。

子どもと話すときも、常に本音。

 

正直も行き過ぎると「バカ」が付き、

「おい、空気読めよ!」と思う場面も

 

おっと、話が逸れました(^^ゞ

 

 

葬儀に集まった親戚が

お義母さんの遺影を見て、

「あぁ、いい顔してるねぇ」と。

 

遺影にした元の写真は、

家族旅行で訪れた夏の北海道で

ひまわり畑をバックに、

リン(当時3歳)と2人並んで撮った一枚。

 

「なんでおばあちゃんがいい顔なのか、分かる?もとの写真には、隣に私が一緒に写ってるからだよ」

と、ちょっと誇らしげなリン。

 

お義母さん、

隣で屈託なく笑っていたちっちゃなリンは、

あの頃の素直さと明るさそのままに、

14歳の少女になりました。

 

おばあちゃんの優しい笑顔と、

おだやかで実直な心と品の良さを

孫たちが引き継いでくれますように。

 

適度に(*^^*)

 

 

お義母さん、本当に

ありがとうございました。