みなさん、こんにちは。カネ守り太郎です。

先日公開したYouTube動画「中核派「全学連」がデモ!女性委員長が叫んだ「高市打倒」と、学生運動の現在地とは?」のコメント欄に、当時を知る視聴者の方から、鳥肌が立つような凄まじい「歴史の一次情報(追記)」が寄せられました。

それは、1972年の「あさま山荘事件」ののち、日本の学生運動や過激派組織がどのように形を変え、そしてどのように「現場」を切り捨てて生き延びてきたかという、教科書には絶対に載っていない組織の解剖図でした。

あまりにも本質的なご指摘だったため、私は急遽、1本の深掘り動画を制作しました。

■ 1972年、組織が「分岐」した瞬間の悲劇

あさま山荘事件によって、世論からの支持を完全に失った学生運動。ここで組織は大きく2つの路線に分岐しました。

  1. 国際路線(日本赤軍): 重信房子氏らはパレスチナへ渡り、独自のテロ闘争へ。

  2. 国内路線(中核派など): 地下へ潜伏し、内ゲバを繰り返しながら組織の延命を図る。

ここで恐ろしいのは、国内に生き残った組織のトップや「OB会(同志会)」の冷酷さです。 彼らは若き学生たちを熱狂させ、デモや過激な活動の最前線へと先導します。しかし、いざ事件が起き、機動隊と衝突して逮捕者や死傷者が多発すると、「上の人間」は巧妙に現場責任から逃れ、二次的な弁護団の裏に隠れて保身に走ったのです。

後輩の活動家(後継)を戦地に送り出すこともせず、自分たちの組織(利権)だけを守る。これこそが、彼らの「生存戦略」でした。

■ 三島由紀夫から現代まで地続きで繋がる「無責任の構造」

この「上に立つ者は責任を取らず、現場の人間(若者)だけがすべての泥をかぶされる」というバグは、実は現代社会の企業やSNSコミュニティのカルト化にも全く同じ形で現れています。

コメントを寄せてくださった当事者の方のお話によると、かつて学生運動をまとめ上げようとし、安田講堂事件の時代に全学連とも深く関わった文豪・三島由紀夫は、若者たちの決起の果てに自決(自刄)の道を選びました。彼は良くも悪くも「自らの思想に責任を取った」象徴と言えます。

しかし、その後の全学連のOB会や同志会はどうだったでしょうか。 沖縄・辺野古の抗議活動の現場でも、現場を引率した船長や純粋な学生だけが「先導責任」を追及され、裏で糸を引く組織や先導した大人たちは現場から消えていく……という、全く同じ悲劇が繰り返されているのです。

明治維新以降、あるいは源頼朝の時代から続く、日本の「家督政治・学閥支配」の闇。 「神輿(若者)は軽い方がいい。担がせて、壊れたら次の神輿に取り替えるだけだ」という、上に立つシニア層の冷酷な心理を、私たちは今こそ直視しなければなりません。

■ 続きはYouTube動画で徹底解剖しています

なぜ彼らは50年間、この無責任な構造を隠し通すことができたのか? そのカネの流れと、人間の「認知の歪み」を、心理学と歴史学の視点からさらにディープに解剖しました。

当時の生々しい証言をベースに制作した、緊迫のドキュメンタリーです。ぜひ、以下のリンクからご覧いただき、あなたの意見をYouTubeのコメント欄で教えてください。

【動画はこちらから】 👉 [動画タイトル:組織の解剖学 あさま山荘事件後の全学連]