立春を過ぎましたが 寒い日が続いてますね。
今回は保育園を卒園してから小学校入学から3年生頃迄を書きたいと思います。
周囲の理解と協力があり 保育園に引き続き小学校も 訓練施設の併設された小学校ではなく自宅近くの小学校に通いました。
1年生の時は 6年生だった姉と一緒に通い 2年生からは 1つ下の妹と通いました。
学校迄の距離は徒歩で15分位でしたが (私の場合は30分)歩くのが遅い事と転んで怪我をする事から 教科書など 勉強道具の他に着替えを持ち 学校に通っていました。
教室に入る前に保健室に行き怪我の治療をして教室に入るという生活が5年生頃迄続きました。
6年生頃になると多少の怪我にも慣れて保健室に行く回数も減っていきました。
勉強については 1クラス20人未満の少人数だった為 全員か理解してから次にすすむ形を取ってくれていました。
なので 理解するのに時間がかかった私がいても先生も友達も待っていてくれました。
本当に保育園時代からの友達や先生には 感謝の気持ちで いっぱいです。
みんなと同じように授業を受けていましたが 何度練習しても まっすぐ線を引く事や 真っ白な紙に名前を書いた時など 字をまっすぐ書く事が出来ませんでした。
今も葉書の宛名書きなどは どうしても 曲がってしまうので曲がらないように工夫して書いています。
(数年後にわかる事ですが まっすぐ線を引けない理由は低酸素脳症による体幹機能の障がいの為だとわかりました)
体育の授業も参加していましたが 縄跳びや跳び箱 プール授業 マラソン スケートなども出来ないなりに参加していました。
運動会は50mや100m走も出なくてはいけなくて 負けず嫌いの私は負けるのが 悔しくて運動会当日は学校を休むと家族を困らせました。
遠足や見学旅行などの時は長距離を歩く事が出来ず疲れやすい私の為に先生や学級委員長が おんぶしてくれたりしていました。
2年生になってからは町内の訓練施設が併設された小中学校に週に何度か学校を早退して通いました。
でも学校の授業に遅れが出てしまうようになり この施設で下肢訓練に通うのは 春 夏冬休みに通う事になりました。(中学3年生迄)
その代わりに自宅で訓練する事と 担任の先生や養護教諭の先生が 訓練施設の先生から下肢訓練の仕方を習ってくださり 授業が終わった放課後に下肢訓練をしてくれました。
でも その 訓練がかなり痛かったので 私はよく訓練を受けないで帰りました。
そうすると 同じ通学路の友達が迎えに来てくれて学校に戻り訓練を受けて帰るという生活をしていました。(6年間)
あとで痛感する事になりますが 私は先生や友達に恵まれて幸せな小学校生活を送る事になりました。
小学校後半の お話は この次に…