外国人と話している時に無性に興奮して「血が巡ってるなああ」と感じる瞬間がよくある。

言語間の差異が心に影響しているのか、未完全への挑戦によるアドレナリンなのかわからないが、どうも日本人と話している時とは全く違う感覚になる。そしてそれが癖になって、いつの間にかやめられなくなってしまう。言語にとどまらず、人、文化、慣習、政治、宗教、歴史、地理、食べ物などたくさん未知のことに出会えるから海外の方と話すことはいつも刺激的になっている。そして旅をする人なら私よりもっと、こういった経験をしているはずだ。

 

だがこんなことはいつも言語化していることと何も変わらない。今回はそんなことを残しておきたかったわけではない。むしろその逆で、そういった思考になったときこそ、日本人との対話をいかに大切にできるかが、自分の世界を広げられるかどうかに深く関わっているのではないかということだ。

 

旅や留学をする人の中には「俺は絶対日本人とは会っても話さない!」という人はとても多い。実際初めて海外に渡る前の自分も全く同じ感情だった。

だが今の私は、この考えにNoを突きつけることができる。この思考に至ったのは、すべての経験が自分という人間を深く、厚くしてくれる一つの要素に過ぎないということを認識できたからだと思う。

 

例えば韓国旅行に行ったとしよう。現地で韓国人と話した。韓国について色々なことを吸収して充実度の高い旅になった。そしてそれを人は無意識のうちに“韓国旅行”という脳内のフォルダに分類する。同じようにアメリカに行った記憶をアメリカフォルダに、ブラジルに行った記憶をブラジルフォルダに分類する。そしていざそのフォルダを見返すとき、それぞれのフォルダごとでしか旅を振り返れなくなってしまうのだ。これは自分という人間に「経験」として培われるものではなくて、単に自身が「体感」したことをかろうじて残しているに過ぎない。

それぞれを一つの「体感」としてではなく、自分の中に落とし込まれた「経験」と捉えられるかが、まさに自分を人間として深く、厚くしてくれるものだと思う。

 

これは日本人と関わるか否かという命題に関しても同様のことが言える。もし本当に出会った人から全てを吸収してそれを自らの「体感」ではなく「経験」として落とし込みたいと思ったら、そこに国籍は関係ないはずだ。日本人だったら普段話してるから同じじゃん、と思うだろうか。いや、全く違う。そもそもわざわざ海を渡る挑戦をして、自分なりの目的や楽しみを持って旅をしている人だ。少なからず海外という意味では近しい興味を持った人であるはずだし、頭のネジが(良くも悪くも)抜けている人に、私は出会ったことがある。世界中のたちんぼを持ち帰りまくって海外の薬局で“梅毒”の英語名を連呼した過去を持つ人に出会った時は、話がおもしろすぎて夜中まで話してしまった。最初はふざけた爺さんだな、と思っていたけれど話していく中で、実は経営者であることがわかったり、人生相談をしてもらったり、振り返れば強く印象に残っていることだ。

日本でスリランカ料理レストランに行った時には、M大学で地中海の研究をしている教授に出会ったことがあり、二時間くらい喋り倒したこともある。研究が本分だからものすごく詳しくて私の興味合わせてさまざまな話をしてくれた。(普通に授業料払いたい)

むしろこういった人との出会い、対話は母国語で話せる分、話の解像度が高く、内容が頭に残りやすい。近しいバックグラウンドを持っているからカルチャーショックを共有できたり、食の好みがあったりそういったこともあるのではないだろうか。

 

旅に出ることも、人と出会い対話を重ねることも、こうして考えを言語化することも全て私を構成する一つの要素に過ぎない。こうやって行動のその先のゴールを見ることができれば、なんだかすごくシンプルなことのように思える。