制服は私の喪服でした。 | 生き残りの私の呟き

生き残りの私の呟き

自死遺族の私が
笑って過ごす
。:+((*´艸`))+:。
ソロ活動ブログ

1983年。


父親が自ら還った年。


四角い画面が

映し出すのは


心霊現象。心霊写真。

心霊スポット。

怪奇ブーム。


「乱射乱撃雨霰」


16の少女は

震える手で手紙を書きました。


取り上げてもらえる事は

ありませんでした。


カゴの中で

退屈している

青い鳥さん。


借りてきた言葉で

講釈たれる

白い鳥さん。


どこかの誰かの死は「娯楽」でしたね。



「お父さんが」

母親の絶叫で

起こされた朝から40年経ちます。


夏休みなのに

制服を着させられました。


制服は私の喪服でした。






何度か記事にもしていますが


私が

遺児。遺族として

初めて手にした著書です。


「自殺って言えなかった。」




あしなが育英会。


 



交通遺児への支援と

心のケアから活動が始まりました。


交通遺児から災害遺児。

そして病気遺児へと

支援の輪が広がる中


1998年。

この国での自死者数が

初めて3万人を超えました。


自死の遺児が

交通遺児の4倍に

のぼっていました。


自死遺児への支援活動の

始まりです。







2日間。

ファシリテーター養成講座を

受講してきました。


ファシリテーター。

手助けをする人。


それは子どもの主導権を奪わない人。

子ども達と何かを一緒にする人。


カウンセラーでも。先生でも

医者でもありません。


評価しない。

先回りしない。

誘導しない。


代わりにはなれない。

代わることはできない。



40年。

千歳を越えて


「柄にもない」場所にいる自分が

いとをかし照れ





とあるカフェ。


1つ席を空けて

隣にいた40代とおぼしき男性が


1人で

ずっと呟いていました。


その体は小刻みに激しく

震え。


一言だけ。

ハッキリと聞こえました。


「アイツだけは絶対コロす」


その言葉を残し

彼は店をあとにしました。



表社会の。

たがが外れたのでしょうか。


表と裏が

ひっくり返ったのでしょうか。


「たがが外れる」


外側から締め付けて

形を維持しているものがなくなる。


お父さん。

お母さん。

心配しなくていいよ。


門限までには

かえるから。


最後まで読んで頂き

ありがとうございますおねがい


夏休みが終わり

制服を着て

学校へ行きました。


無邪気に笑う

同級生達の

「お遊戯会」の輪に

入れなかったのは。


ひと夏の経験が。


私を

一足先に

オトナにしてしまったのかも

しれません。


鬼が出るか蛇が出るか。


宴もたけなわ。

そろそろ

お開きの運びとなりますでしょうか。