現代の世の中は日々「何かをする」ことで時間を埋め尽くそうとする。いうまでもなく我々にはいつしかわからぬが確実に死の瞬間が予定されている。死がある以上、人間にとって時間は有限であるのは自明だが、「する」という能動的存在方法のみで日々を過ごすことが習慣化されている。スケジュール(schedule)という言葉は日常よく使われることばだが、もともとは一枚の紙という意味だ。ある1日にすべきことを一枚の紙に誓約することで業をなせるよう祈りをささげたのだろうか。現代の人間が頭の中にインプットされている日々の予定をわざわざ書き記したり、今風だとスマホのスケジュール帳にメモしたりするのはおそらくそんな祈りの行動のなごりではないか、と思った。
そこで何より自分自身に対して、もちろんこのブログを読む人にも強く勧めたいのが、「何もしない」という受動的存在方法をとることである。何をしない、と聞くと、さぼる、なまける、無駄ということばが耳をかすめるが、「何もしない」ことからこそ時間の無限性が現れるのではなかろうか。
人間が「何もしない」と意思したことと、意思した人間が実際に「何もしなかった」かという現実との一致はここでは問題にはならない。何をしない、と意思したところで、人間は呼吸し、心臓は鼓動する。生命活動をとめることはよほど卓越した霊能者でない限りは出来ない。意思すること、時間を手放すこと、そのものが大切なのである。
明日から我々はスケジュール帳に「瞑想」という文字を書き込まなくてならない。