若宮八幡宮【三河】岡崎三郎信康公御首塚 | 第六天魔王の天下統一記

第六天魔王の天下統一記

第六天魔王(織田信長)になったつもりで史跡を中心に巡る小旅行記です( ̄∇ ̄*)ゞ

冠木門の所では危険だし人目に付くので、
国道1号線まで出た所のコンビニで改めて休憩( ;´・ω・`)

一服しながらエナジードリンク飲んで再出発。

下って直ぐの朝日町4丁目交差点を南に行くと若宮八幡宮。

階段を登って境内。

本殿右手に

婿殿・信康の首塚。
何か写ってる様に見えますが、アクリル板の汚れと反射(^_^;)

岡崎公園では扱われてませんが、こちらでは沢山の幟が(^-^)

手前の案内板。
当然、通説の「信長が迫って殺させた」

長篠で武田を破り、西の毛利とも落ち着きつつあるとは言え、
まだこの時期に家康を敵に回しかねない無理強いをするでしょうか?

桶狭間後の独立で信康を見捨てたのは家康。
信康も家康を恨んでたかもなので二人に確執があっても不思議ではありません。

奇しくも三男・秀忠が産まれた後でもあります。
阿部サダヲなら兎も角、内野聖陽なら躊躇しませんよ。

八柱神社は北の方にあり、行きたかったけど断念した所。
祐傳寺から改葬されたと言われます。


首塚の右手に御由緒碑。本殿の箱に貰えるのもあります。
「信長の後口難」て( ・ε・)
家康と信康は「公」で信長は無いし( `Д´)/
岡崎では悪人ですよ( ゚ε゚;)

理由は置いといて、家康は浜松から軍勢を率いて岡崎へ。
信康を大浜(矢作川を下った沿岸)に幽閉。
その後、遠州の堀江、二俣に護送させて自刃させます(1579年)
それに先立ち、築山殿も護送中に殺害。

そして、同じように信長に首を検分させた後に埋葬。
しかし、城内で怪異変化が度重なった為に、
城代になった石川数正が仁徳天皇と合祀。
仁徳天皇もビックリですよね(^^;

数正は信康の後見人。
その後、出奔して秀吉の下へ(1585年)

事件前から家康と対立?
城代になったのだから、信康の行状を密告してたとか?
何らかは関連してるでしょうね。


北口から出ます。

幟は沢山ありましたが、ひっそりと寂しい所でした。
もし家康が泣く泣く殺したのであれば、
信長の死後にでも東照宮みたいにしても良いと思うのですが。

7月9日。

八柱神社もですが、浜松にも行くので夏休み中に二人に関する所に行くつもり(^-^)


これで瀬名関連も取り敢えず終わり。
もう一人の姫関連が続く。