小早川秀秋陣・松尾山【美濃】西軍(内応) | 第六天魔王の天下統一記

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第六天魔王(織田信長)になったつもりで史跡を中心に巡る小旅行記です( ̄∇ ̄*)ゞ

関ヶ原町の松尾山。

この先に登山口。

東に南宮山。麓には伊勢街道。


北に宇喜多隊の天満山(多分)


登山口の手前に駐車場
(前半はバッテリー節約の為ガラケー(^^;)

小早川秀秋の陣旗の黄地に違い鎌。

登ってくと二叉。
左は行き止まり(気になる)で右へ。

また陣旗も登場。

更に登るとまた道標。

今度も右へ。

進むと山之神神社。

上の方に祠。


途中下ったりもしながら、
やっと山頂へ。

ここが小早川秀秋の陣跡なのですが、
それ以前に城もありました。

松尾山城史。

美濃守護代・富島氏が築城(1400年頃)

その後、信長に帰属(1569年)
これがあったので行きました(* ̄∇ ̄)ノ
(他の陣跡はついでw)

でも、1567年に稲葉山城を攻略し、
翌1568年には付近を通って上洛してます。
ちょっとモヤっとしますが続けて…

浅井長政が裏切って支配下にし修築。
しかし、長比城上平寺城と同じく守将の樋口直房が竹中半兵衛の調略で寝返ります(1570年)

そして廃城(1579年)

関ヶ原の戦いでは大垣城から追い出された伊藤盛正が布陣してましたが、
後からやって来た小早川秀秋にまた追い出されます( ̄0 ̄;)

伊藤盛正(戦後改易)って…( ̄▽ ̄;)


秀秋は会津征伐に向かってましたが、
大坂に着いた頃に三成が挙兵したので仕方無く西軍にて感じ。

勝ったら関白(小早川に養子に出されたけど元は秀吉の養子(正室ねねの甥))て条件だったらしいけど、
それも秀頼が成人するまでだし同じ養子から関白になった秀次を見てるから嫌だったと思うんですが( ̄0 ̄;)

伏見城を攻めた後は病気と称し戦線離脱。
その間に黒田長政を介し内応を約したとか。

そして本戦前日に布陣したのが松尾山(兵力15000)
この動きに不審に思い、
三成等は関ヶ原に移動したとも言われます。

「松尾山 小早川秀秋陣所古趾」碑。



関ヶ原が一望出来ます(* ̄∇ ̄)ノ


陣形図。

ここまで良くは見えません(^^;

大体です(^^;

左(西)から大谷吉継。
宇喜多秀家の天満山。
石田三成の笹尾山。
福島正則
そして桃配山から本陣を移した家康。

動かない秀秋に対して威嚇射撃したと言われます…
が、まず届かないし撃ってるのも分からないのでは?( ̄▽ ̄;)

そして裏切って大谷隊を攻撃して破ります。

主郭の周りの土塁。



南の虎口。


南にも曲輪。


虎口を下から。



本戦後、秀秋は佐和山城攻めにも加わり、
筑前名島30.7万石から岡山55万石に。


続きます。