吉川広家陣・南宮山北麓【美濃】西軍(内応) | 第六天魔王の天下統一記

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第六天魔王(織田信長)になったつもりで史跡を中心に巡る小旅行記です( ̄∇ ̄*)ゞ

垂井町宮代、南宮大社の少し西の不破高校。

左に高校。奥に南宮山

高校西の空地に吉川広家陣跡。

吉川氏の家紋の三つ引両。
陣旗は赤地胴白に五七桐紋。


吉川広家は毛利元就の次男・吉川元春の子。
元春を敵対してた吉川氏の養子にして取り込むのは信長が伊勢の神戸氏や北畠氏にしたのと同じですね(^^)

三男・隆景も小早川家の養子になり、
吉川と共に毛利の両川と言われます。
そして隆景の養子が秀秋(秀吉の正室ねねの甥)

四男・元清は側室(継室とも)の子で扱いが悪かったのですが、
穂井田氏の養子に(自ら名乗ったとも)
元清の子・秀元が主家の輝元(元就の長男・隆元の子)の養子になり、
毛利の大将として南宮山の山頂に布陣します。

そして広家は秀元を動かさないように山麓に(兵力3000・不破高校の生徒数の10倍w)

西に朝倉山。その向こうに関ヶ原。


本戦では関ヶ原に向かう事なく動かず。

何も朝倉山を越えずとも目の前に東軍の殿軍の池田輝政・浅野幸長等が居たんですが(・ε・` )

幸長の前(西)の方に家康本陣。
恵瓊の後(南)の南宮山に秀元。

広家は三成と仲が悪く、
輝元が西軍の総大将になるのに反対(それは秀元も)
しかし恵瓊の説得で西軍に(恵瓊との仲も悪かった)

違うのは秀元が戦うからには勝つつもりだったのに対し、
広家は家康と内応してた事(・ε・` )

恵瓊もこの事を読めたら西軍に付けなかったでしょうね。
(そしたら三成の挙兵も無かったでしょうが)


○4月10日訪問○

広家は南宮山の3万を足留め。
家康との約束を守ったのですが
(前哨戦では戦ってた)、
毛利本家の本領安堵は反故
(輝元は嫌々総大将になったのではなく自らの意志と取られた。
この辺はその頃の家康得意の難癖w)

毛利本家を改易の後、広家に周防・長門二国の37万石を与えると告げられます。

これでは広家の立場ないですよね( ̄▽ ̄;)
広家は必死に嘆願して、
周防・長門は毛利本家に。
広家は岩国3万石を分知されます。

結果、輝元は120万石→37万石
広家は14万石→3万石
秀元20万石→6万石と大減封。

何もしなかったのに…
家康が一枚上手だったて事ですね(^^;
それも幕末の倒幕の力になったでしょう。


因みに吉川晃司は元春の子孫(^^)
「天地人」では信長。
「八重の桜」では隆盛。
毛利と反する役柄ですね( ̄▽ ̄;)


まだ南宮山が続きます。