
小山が岩津城跡。

橋を渡った向こう(東)には岩津天神。
下は東名高速です。

南に城址に行けると思われる通路があるのですが私有地の為に進入禁止(^^;
この辺に案内板があるはずなのですが見付からず(..)
岩津城は松平二代・泰親が松平郷から平野部に進出し奪った城と言われます(1421年)。

西の方に廻ってみましたが諦めました(..)
更に廻るか最初の所から強引に(通路は避けて)行けば行けるみたい。

西南方向。
松平氏が目指した平野部が広がってます。
左の方に本多氏の西蔵前城。

西方向。
豊田方面。
こちらにも四天王の生誕地があるのですが、それはまた明日。
直ぐ南には三代信光が創建した信光明寺(1451年)。

☆駐車場脇に案内板☆

松平三代(親氏・泰親・信光)の墓があります。
この日は平日で寺内の保育園には沢山の園児が居たので入りずらかった(^o^;)
この後、全員集合してる大樹寺に行く予定だったのでパス(^^;
信光は安祥城を奪い本拠を移して(1471年)、
岩津は長男○○(不明)に譲られ、直ぐ亡くなったのか三男親忠の長男親長(信光の長男とも)に(岩津松平家)。
☆源空院の略系譜☆

黒柳さんは親長を信光の長男としてますね。
信光の次男守家は竹谷(現蒲郡市)を(竹谷松平家)、
三男親忠は安祥を継ぎます(安城松平家)。
信光は磯野家に例えるなら磯野藻屑源素太皆(もくずみなもとのすたみな・おはぎを38個食べて殿様に褒められた先祖)かな?
(もういい?w)
岩津はその後、加茂郡(現豊田市)の中條氏等や(明応の井田野合戦・1493年)、
今川家臣だった北条早雲に(永正三河の乱・1508年)攻められ衰退。
後に三木松平信孝が横領します(1542年)。
弟康孝の遺領だけなら兎も角、
岩津まで手を出したのが広忠の家臣達に警戒されたのかもですね(^^;
裏を返せば広忠にはそこまでの力が無かったと(^-^;
こうして本来の嫡流の岩津松平家は没落し(家康に繋がった事もあり)安城松平家が宗家に代わります。
しかし、その安城も織田に奪われ、
奪還するのに竹千代(家康)を人質に送り今川の力を借りなければならなくなりました。
内部分裂で松平そのものの危機を迎えるんですよね( ̄▽ ̄;)

南の信光明寺に停めて行くつもりが、
保育園がやってたので東の道路に路駐しました(^^;
その為ゆっくり城へ入れず(^o^;)
○2月12日訪問○
これで信孝の横領地シリーズは終わり。
次回から信孝の仲間シリーズです。