桜井町の隣の東町へ。
狭い道を入って行き、

真宗(大谷派)の誓願寺へ。
内藤氏(三河系)の菩提寺です。

寺碑。
三河のこの辺りに来た内藤重清が始まりで、重清は松平宗家4代親忠と戦いますが破れ(1493年)、以後親忠と5代長親に仕えます。

境内の左に重清の墓。
二代目義清は岡崎生まれで、松平宗家6代信忠と7代清康に仕え、豊田の上野城(やっくんさんのブログ)の城主となり、守山崩れ(1535年)後も信秀(信長の父)の侵攻を防ぎます。
しかし、その時の傷が元で死去。
墓は岡崎の西光寺に。
三代目清長も父義清と共に上野城を守り、松平宗家8代広忠と9代家康に仕えますが、三河一向一揆(1563年)では宗徒だった為に一揆側に。
敗れて幸田町の荻城に蟄居。
その地で亡くなります。

誓願寺本堂右手に墓。
豊田の隣松寺にもあります。
誓願寺は城郭寺院で、

東側の道路を挟んで堀。

北西には土塁が残ります。
肝心な姫城は…

寺の北東にありましたが、宅地化してます(^^;
そして、後の内藤家は…
ギャオスとして中日のピッチャーとなりますι(`ロ´)ノ(嘘…関係あるかも?東三河出身)
清長の養子信成と実子家長が合体して信長にι(`ロ´)ノ(でもなくて…)
二人は一向一揆で父に反して家康側に。
信成は広忠の実子との話もあり(だとしたら家康の異母弟)、家長は家康の義理の甥にあたるらしい。
その後、家康に従い各地で活躍。
姉川や長篠にも行ったでしょう。
これで信長と関係あり!(家康に絡めば大体絡みます)
関東移封時に信成は伊豆韮山城(お盆に行った…ほら繋がった)へ、家長は上総佐貫城へ。
家長の分家からは挙母藩へと繋がります。
以上、誓願寺と内藤家に纏わるエトセトラでした(^^)
次は三河一向一揆の中心へ!!
続く。