そこに、
「ある」ものを、
ただ、
受け取る。
静かに、穏やかに、
心を開いて、
すべてを否定することなく、
「ある」ものが、「ある」と、
ただ、受け入れる。
それが、
できれば、
それが、一番、
自然なこと。
なのかも、しれない。
でも、
人は、どうしても、
ジャッジしてしまう。
目の前に、
ただ、「ある」だけの、
それを、
良いだの、
悪いだの、
どうでもいいだのと、
反射的に、判断して、
無自覚に、裁いてしまう。
人には、それぞれ、
好みがあって、
好き嫌いが、ある。
そのことは、
ぜんぜん、構わない。
けど、
選り好みしすぎて、
無自覚に裁いて、
否定までしてしまうと、
それは、
受け取り拒否していることに、
もっと言えば、
その対象の存在自体を、
否定していることにも、なってしまう。
好き嫌いは、
ある意味、しょうがない。
それは、
感覚的なものだから、
どうしたって、
なくなりようもない。
好きだって、
嫌いだって、
どんな感情だって、
「ある」ものは、「ある」、
わけだし。
でも、
それを前面に出して、
独自の価値観を駆使して、
無意識に正当化して、
ジャッジしているとき、
人は、
感覚っぽく、
ふるまっていると思わせて、
実は、
思考の方を働かせている。
ジャッジして、
判断して、
裁いているのは、
あくまで、思考。
ただ、そこに、「ある」だけの感情を、
正当化させるために、
無自覚に思考に頼ったとき、
何かが、ズレる。
考えること、
それ自体は、
もちろん、とても大切。
だけど、
思考は、ときに、
自然な流れを分断してしまう。
本来、そこに「ある」はずの、
繋がりを、分断して、
自然な流れに、抵抗して、
すべてを、バラバラに分離させて、
個々を孤立させて、しまう。
ジャッジは、
自分を正当化してくれて、
自分を守ってくれているように見えて、
実は、
自然に、ありのままに、
「ある」ものが、「ある」、
ただ、それだけの状態に、
抵抗するかのように、
流れを悪くして、しまう。
ジャッジには、
どうしても、
否定がつきまとう。
だから、
自然な流れを、
妨げてしまう。
そんな、
無自覚で、やっかいな、
ジャッジの中でも、
一番、よろしくないのは、
自分自身が、
自分の感情を、
ジャッジして、
裁いて、
否定してしまうこと。
それが、一番、
流れを悪くしてしまう。
のかも、しれない。
かつては、
それこそ、幼かったあの頃は、
分離などなかった、はず。
自分を含めた、すべてが、
ただ、繋がっている世界を、
ただ、素直に生きていた、はず。
それは、あくまで、感覚的に。
なのに、
そんな、
大切なはずの、
無条件で、
ただ、ただ、当たり前に、
そこに、あったはずの、
繋がりを失ってしまったのは、
いったい、いつから、
なのだろうか。
繋がりをなくして、
流れを悪くしてしまった、
その、はじまりは、
かつての自分自身が、
自分のことを、
自分の感情を、
自分の一部を、
ジャッジして、
否定して、
切り離そうとしたときから。
なのかも、しれない。
そうせざるを得ない何かが、
起こった。
だから、
感じている感覚よりも、
思考でつくりあげた、
自分にとっての正しさの方に、
頼ろうとした。
そうやって、
自分でつくった自分の殻に、
無自覚に閉じこもって、
本来あるはずの、
繋がりを見失っていった。
のかも、しれない。
本来は、
ただ、感じてさえいれば、
ただ、「ある」ものたちで、
身のまわりは、
満たされていく、はず。
なのに、
考えていると、
どうしても、
「ない」ものばかりが、
増えていく。
感じる世界に浸っていれば、
それだけで、
身のまわりの様々な「ある」を、
いつでも、ずっと、
感じ続けられる。
だけど、それは、同時に、
どうしても、怖いこと。
心もとない感じで、
むき出しの感覚で、
無防備に過ごしてしまう、みたいに。
だから、
しっかり考えて、
良い悪いを判断して、
ジャッジすることで、
安心を得ようと、してしまう。
その結果として、
まわりとの繋がりが、
引き換えになったとしても、
本来の自然な流れを、
見失ってしまってでも、
目の前の、
安心で安全に見える方を、
選択しようと、してしまう。
思考で、
つくり出された、
たくさんの「ない」たちを、
手放して、
様々な「ある」ものを、
認めてしまうと、
そうやって、
ただ、「ある」ものたち、すべてを、
ゆるしてしまうと、
これまで守ってきた、
自分の意志が、
自分の主張が、
自分の存在が、
脅かされてしまう。
そんな気が、してしまう。
だから、
思考は手放せない。
感情に浸ってはいられない。
自分にとって不都合な、
それが、「ある」ことは、
絶対に許せない。
でも、
それでも、事実として、
目の前には、
「ある」ものが、ただ、「ある」。
だから、困ってしまう。
でも、
そんな状況すらも、
認めたくない、
ゆるせない自分の気持ちも、また、
否定しなくて、いい。
そんな自分の感情たちも、また、
「ある」ものは、「ある」。
の、だから。
ただ、その感情を、
「ない」ことにしたい、
その相手に、その対象に、
身勝手に、ぶつけてしまうのではなく、
「ない」ことにしたい、
自分の内側には、何が「ある」のかを、
自分自身が、
わかってあげる必要は、ある。
のだけれど。
自分の外側には、
自分が望むかどうかに関係なく、
「ある」ものが、ただ、「ある」。
そして、
自分の内側にも、
自分のコントロールの及ばない、
感情や感覚たちが、
様々なカタチで、
「ある」ものが、ただ、「ある」。
それを、そのまま、
認めていけば、いくほど、
流れは、良くなる。
だって、それが、
もとの自然な流れに、
近づいていくこと、だから。
それこそ、
ありのままの姿に、
戻っていくこと、だから。
自分の外側にある、すべてを、
もし、受け入れられたとしたら、
そのときは、
自分の内側にある、すべても、
受け入れられている。
のかも、しれない。
もし、本当に、
そうなれたとしたら、
そのとき、はじめて、
自分に必要なものは、すべて、
この世界に、そろっていると、
心から信じられる。
のかも、しれない。
自分にとって、
都合が良いとか、悪いとか、
正しいとか、間違っているとか、
そういうジャッジを、
超えてしまって、
どんな感情も、
どんな自分も、
どんなものも、すべて、
あって、いい。
「ある」ものが、ただ、「ある」。
そう感じられたとき、
心から受け入れたとき、
満たされた、
自然な流れの、
その循環の中に、
身を任せられる。
のかも、しれない。
それこそが、
本当の、
心の平安。
なのかも、しれない。
岩佐利彦







