人は、誰でも、
目の前の出来事や、
他人のことや、
自分自身に、
意味づけをしている。
コレは、こういうことだとか、
この人は、こういう人だとか、
自分は、こういうヤツだとか。
意味づけして、
判断して、
良い悪いなんかを、
ジャッジしている。
ジャッジするから、
対応できる。
ジャッジするから、
良い悪いが見分けられる。
ジャッジするから、
意思決定ができる。
ジャッジするから、
改善できる。
ジャッジするから、
成長できる。
ジャッジするから、
希望が持てる。
気がする。
ジャッジしているときの、
自分の内側の、
心の声には、
自分が世界をどう見ているか、
自分はどんな世界で生きているのか、
自分と世界はどんな関係なのかが、
にじみ出ている。
もし、心の中が、
外側の世界に対する、
批判だらけならば、
そんな、
批判にさらされる怖れにまみれた世界で、
生きていることに、なる。
でも、
ジャッジするための、
その判断基準がなければ、
土台のない、
足場が不確定な、
あいまい過ぎる、
自分という存在が、
いるんだか、いないんだか、
よくわからない世界を生きることに、
なってしまう。
だから、
ジャッジするための、
自分の内側の判断基準、
モノサシは、
生きる上での、
基盤とも言える、
とても、とても、
大切なもの。
なのに、
自分がどんな判断基準を持っていて、
どんなモノサシを使っていて、
どんな世界観で生きているのかは、
あまり自覚していない。
当たり前過ぎて、
普段は、
意識すら、されない。
それぞれの人の内側には、
自分の世界がある。
ということは、
当然、
その世界を守り、
維持する必要が、ある。
守るためには、
選別もするし、
必要とあらば、
拒絶もするし、
邪魔だと判断したものは、
排除しようとだって、する。
自分の世界を維持するためには、
まわりの世界をジャッジして、
自分にとって、
都合が良いのか悪いのかを、
判断する必要がある。
だけど、
その当たり前の、
自分の内側の判断基準に従った、
ジャッジのおかげで、
世界のすべてを受け入れては、いない。
ことに、なってしまう。
ジャッジして、
選り分けているうちは、
ありのままの世界に、
レッテルを貼って、
良い悪いを決めつけて、
本来、
何の意味もない、
そのまま、
あるだけの世界に、
抵抗していることに、なってしまう。
ジャッジして、
意味づけをして、
レッテルを貼って、
選別して、
抵抗して、
切り離して、
遠ざけて、
拒絶して、
そうやって、
自分の世界をつくり、
守り、
維持している。
自分と、
まわりの世界とを、
分離させてしまい、
壁をつくってしまい、
関係を悪化すらさせてしまう、
そんな、
ジャッジ。
だけど、
だからと言って、
ジャッジは、
無理にやめなくてもいい。
と言うか、
完全にやめることはできない、はず。
自分の足場を、
自分の世界を、
自分の基盤を、
完全に手放すことなど、
到底、不可能な話。
それに、
ジャッジすることで得られる、
不思議な納得感というか、
安心感は、
誰にでもある、はず。
ジャッジすることで、
自分という存在が、
確かにいることを、
あらためて確認できるような、
そんな、安堵感。
そもそも、
ジャッジをやめようとする、
その行為自体が、
抵抗にも、
なってしまう。
ジャッジしている自分を、
ジャッジして、
やめよう、やめようと、
抵抗している。
みたいな。
だから、
ただ、気づいていくだけで、いい。
ひとつ、ひとつ、
丁寧に、
ジャッジしている自分に、
気づく。
そのやり方が、
一番、
自然で無理のない形で、
自分が心から求めている方へ、
自分を導いてくれる。
のかも、しれない。
自分のことに限らず、
誰かのことを、
もし、
わかってあげよう、
寄り添おうと、
理解しようと、
思ったのなら、
ただただ、
見守るように、
そのまま認めて、
受け入れてあげるのが、
一番、効果がある。
それが、一番、
心を開きやすいし、
安心感があるし、
本当の気持ちを大切にできる。
ただただ、
そのまま、
受け入れてもらえたら、
それが、
一番嬉しい、はず。
誰だって。
自分自身が、
最も、
ジャッジして、
選別して、
拒絶しているのは、
自分の内側。
なのかも、しれない。
自分で自分を、
ジャッジして、
良いだの、悪いだのを決めつけて、
邪魔になった自分は、
排除しようとしたのなら、
そりゃあ、
生きづらくもなるし、
追い詰められも、する。
だから、
ジャッジしている自分に、
ただ、気づいてあげる。
それだけで、いい。
それは、
別に目新しくもない、
ありふれた方法。
かも、しれないけれど、
一番、シンプルで、
一番、基本的なことが、
一番、効果がある。
誰にでも効果が望めるからこその、基本。
それは、どんな分野にも、
当てはまるのかも、しれない。
例えばの話、
野球を最も極めたであろう人物の一人である、
イチローさんが、
自分は野球をかなり極めたので、
基本はもう、卒業です。
とは、言わないはず。
たぶん。
現役を引退した、今でも、
野球にたずさわる者の、
その姿勢として、
基本のトレーニングは怠らないはず。
むしろ、今も、
誰よりも、
基本の大切さを、
身に染みて、
感じているはず。
基本は、
極めようとすれば、するほど、
突き詰めようとすれば、するほど、
その奥深さに、
圧倒されるみたいな。
だからこそ、
自分と向き合うときの、
その基本である、
気づくことを、
繰り返す。
丁寧に、丁寧に。
一見すると、
非効率に見えて、
何のヒネリもなくて、
まわり道に思えてしまって、
だから、
どうしても、
もっと、
決定的なやり方を、
探し求めて、
まだ、
手に入れていない情報に、
目移りしてしまいがちだけど、
基本と呼ばれることに、
取り組むことが、
実は、
一番、確実で、
結果的に、
一番、近道。
なのかも、しれない。
日々の日常の中で、
絶えず、何かを、
ジャッジして、
いつも、何かに、
抵抗している自分の内側に、
ただ、気づいていく。
何度でも、何度でも。
また、同じことをやってしまった、
まったく、進歩しない、
こんな自分は、もうイヤだ。
そう感じたとしても、
そんな自分にすら気づいて、
ただ、そうなんだと受け入れる。
飽きている自分にも、
気づくことをうっかり忘れてしまった自分にも、
ガッカリしてあきらめたくなる自分にも、
ただ、気づく。
それを、
それこそ、
気づいたときに、
気づくたびに、
気づいただけ、
繰り返し続けていると、
ふと、気づきの感覚が変化するときが、
訪れる。
なんだか、
ゆるんだような、
ゆるされたような、
そうしている自分に、
よくやってるよなって、
声をかけたくなるような、
懸命に、ただ生きている自分が、
それだけで、
いとおしく思えてしまうような、
そんな感覚。
気づくことを続けた、
その先にある感覚が、
どんな感覚なのかは、
人それぞれ、
なのかもしれない。
けれど、
感覚の変化を体験し、
実感することが、
何よりも、
とても、とても、
大切。
気づくことを、
基本を、
ただただ、
素直に、
丁寧に、
根気強く、
あきらめないで、
信じて、
続けていったとして、
その先に、
もし、
自分の内側にある、
大切な何かを、
統合できたとしたら、
そのとき、
外側の世界は変わる。
のかも、しれない。
そのとき、
自分は静かな世界にいることに気づける。
のかも、しれない。
岩佐利彦






