人のしていることには、
どんな言動にも、
どんな振る舞いにも、
必ず、
意味があるはず。
自分を内側から動かす、
自分にとっての、
譲れない、大切な、意味。
外側からは、
どうしても、無意味にしか思えなくて、
自己満足にすら、なっていないように感じられて、
そのあり様は、混乱しているようにしか見えなくて、
当事者本人も、
どうして、そんなことをしたのか、
見失っていて。
でも、
そうすることしか、
できなくて。
でも、でも、どうしても、
それを説明することができなくて・・・
そんな、
ギリギリまで、追い込まれたような行動にも、
破滅的に、自分の居場所を失うような言葉にも、
きっと、必ず、
そうせざるを得なかった、
自分にしかわからない意味がある。
抑えきれなくなくなって、
どうしようもなくなって、
あふれるように噴出した、
心の奥に封じ込めていた何かがあるから、
そうしてしまった、
自分の内側にある、その本当の意味。
そうしてしまうのは、
何なら、いつも、そうなってしまうのは、
まるで、ハマってしまうかのように戻ってくる、
いつもの、その場所には、
願いがある。
こうなってほしい。
こうなってないことが許せない。
なんで、こうなってないんだってぐらいの、
願い。
だから、苦しい。
自分を内側から動かしている、
その根源にある、
願いは、
決して、なくならない。
だから、苦しい。
その大切な願いを、
外側にいる、自分ではない他人が、
親切に見つけてあげたり、
繊細に壊れないように育んであげたりするのは、
限度があり、無理がある。どうしても。
幼かった、あの頃ならまだしも、
もう大人になってしまった、今では、
それは、かえって不自然になる。
そこには、自分だけの領域がある。
自分にしか理解できない、
自分だけの、
自分にしか触れられない世界。
他人がしてあげらるのは、
その大切な何かの存在を、
見守るぐらい。
良くも、悪くも、
影響され、翻弄されることぐらいしか、
できないし、
人が別々の個体を持った、
他人である以上、
その人の内側のことは、
その人にしか、わからない。
でも、なぜか、
誰かが願いに繋がった、その瞬間は、
不思議とまわりにも伝わる。
そして、それが、
何よりも、
とても、とても、うれしい。
自分のことではないのに。
他人のことなのに。
自分がその場に、その瞬間に、
居合わせたことが、
どうしようもなく誇らしくなるほど、
うれしい。
そこにこそ、
その瞬間にこそ、
人が、誰かと一緒にいる、その意味があるぐらいに。
それは、
人の、生命の、
意識みたいなものが、
どこか、深く、よくわからない領域で、
繋がっている。
わかれているのに、つながっている。
その証なのかも、しれない。
人は、自分以外の誰かがいてくれないと、
自分という存在を、
認識できないとしたら。
自分の内側にある願いは、
表に出さないと、
誰かに届けようとしないと、
誰かに伝えようとしないと、
何も成すことができないとしたら。
抑え込めず、
あふれ出るようにして、
表に噴出してしまった、
その言葉を、その振る舞いを、その感情を、
なぜ、そうするのか、
その根っこには、何があるのかを、
自分自身がわかってあげる、
その責任が、
願いを抱えている自分には、ある。
それは、
そうしてしまったことに対して、
すいませんとか、
ごめんなさいとか、
反省したり、懺悔したり、
もう二度としませんって、
ひっこめてしまうことなんかではない。
そもそも、
そんな悲しくて、さみしい結末なんか、
誰も望んでいないのだから。
そうしてしまった、
どうしても抑えきれず、
図らずもやってしまった、
その行動の先に、
自分のやってしまったことを、
そうやって表に出して、
自分の目で認識できるようになった、
消えることのない、願いを、
他でもない自分自身が、
見つけてあげて、
思い出してあげて、
受けとめてあげて、
自分がそうしてきた理由、
心から思い出したかった願いに、
繋がり直すこと。
それは、まるで、
これまで、自分を押さえつけて、
自分を苦しめていた鉛のような重りが、
自分の足場を、
根本から支えてくれる土台へと、
認識がかわるように。
これまでと、
いまと、
これからを繋ぐ、
一筋のまっすぐな線が、
自分の内側を通り抜けるように。
そうやって、
自分の内側にある願いを、
思い出すことができた、
その先に、
本当に、素直に、
ありがとうって、
言えるとこまで、
自分のことをわかってあげること。
それが、
自分の内側にある願いに対する、
責任なのかもしれない。
それが、
自分のそばに居てくれた、
大切な人に対する、
責任なのかもしれない。
岩佐利彦