前回のあらすじ
宗教と言う言葉を聞くだけで虫酸の走るおれでしたが、余りに自分を粗末にする傾向のある自分を何とかしたくて、生長の家と言うところの短期練成会という合宿に参加することにしたのだった。
ってな訳で生長の家の短期練成会を受けてきた訳ですが、
まず一番引っかかりのあった言葉は
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。
って言うのなんだよね。
・・・いや、それ程感謝に値する親だったっけ?
って思わずにはいられなかった。
このブログにも何度か書いたことあるけど、
おれの親父は面白味の無い男で、奇抜なことが好きなおれとは全く性格が合わず、何を言ってもお前の考え方はおかしいと言うばかりで、死ぬまでおれを一人前と認めてくれなかった人だった。
母親はいわゆる教育ママで、おれがオーディオやコンピュータに関心を持って、どんだけ買って欲しいとだだをこねても、「勉強の邪魔になるから」と言って頑として買ってくれなかったし、心理学をやりたくて文学部に進みたかったおれの意思を阻んで進路を変えさせたって事もあって、それがおれにはものすごく痛恨だったんだよな。
結果的におれは心ならずも法学部に行くことになって、余りのモチベーションの低さから2回も留年することになったし、留年したせいもあって本来就職に有利なはずの法学部に進んだ甲斐もなく就職戦線で苦戦を強いられ、地元の小さな書店にしか就職できず、そこも長続きせず職を転々とすることになった。
もし、希望通り文学部に進めていたら、就職には不利だったかもしれないけど、留年することもなく、全く違う人生を送れていたような気がしていた。
そのきっかけを作った母をおれは心の底ではどうしても許せていなかった。
余りにもひどい仕打ちだと思っていた。
だから、両親はおれを愛してくれていないんだと思っていた。
なので感謝と言ってもなあ・・・と思ってた。
そんな中、今回の短期練成会の二日目には浄心行ってのをやることになっていた。
浄心行って言うのは、
日頃心にわだかまっていた恨み、憎しみその他ネガティブな想念を紙に書き出して、生長の家のお経を唱えながらそれを焼却するって言う儀式
なんだよね。
麦わらの一味の狙撃手じゃないですが、
ネガティブなら任しとけ!
って感じのおれは、
まず両親を筆頭に、
幼い頃おれをいじめ抜いたクラスメイトや、
パワーハラスメントでおれが正社員の座を失うきっかけを作った元上司
などの事をつらつらと書き連ねましたよ。
もう書きながら、いろんな人たちの憎々しい表情が脳裏に浮かび、思い出し怒りで
ってな感じになってました。
だから、こんなことをして一体何になるって言うんだと思っていたんですが・・・。
浄心行が終わった後、ふといろんな人の顔を思い浮かべると、何故だか彼らの心からの笑顔しか思い浮かばなくなっていたんだよね。この人って、こんな風に笑うんだったっけ?と意外に思わずにはいられないほどに。
それでもあまり深くは考えないようにしてその晩は眠ったんですが、
三日目の午前中の講話の一つは両親についてのお話だったんですが、それを聞いている間に突然思い出したんですよ。
母が運動会や遠足のときにはおれの大好きなおかずを必ずお弁当に入れてくれたことを。
おれが富士山の絵を描きたいとか言うと、毎日の仕事で疲れているにもかかわらず、父が車を飛ばして富士山が見える場所まで連れて行ってくれたことを。
二人とも、大学に受かったり、正社員の地位を取り戻したりして、おれの人生がいい方向に変わりだした時には本当に喜んでくれた。
当時の自分には受け入れられないことだったかもしれないけど、母は何がおれの為になるかを考えに考えて、あえて心を鬼にして教育ママとして振る舞ったんだろうし、
父は常識とはかけ離れた言動をするおれが、社会から受け入れられなくなるのではないかと心配して、それで必死に改めさせようとしていたんだろう。
何が「両親はおれを愛してくれていないんだと思っていた」だって?
それらは両親が自分を愛してくれていたことの紛れもない証拠じゃないか!!
そう気付くと、自然と涙があふれて止まらなくなったよ。
そして、同時にクラスメイトや上司も同じだったんだと気付いた。
彼らもおれの当時の有り様を何とか改めさせようとしていたんだ。
だけどおれが余りにも頑なだったから、必死になり過ぎてしまっていただけだったんだ。
おれがおれ自身を大切に扱うことが出来ずに粗末に扱い、行動にブレーキをかけていたのは、
おれは両親から愛されず、いろんな人からもたくさんひどい仕打ちをされて、
おれはおれ自身を大切にしてはいけないんだと思い込んでしまっていたせいだった。
だけど、ほんとうは違ったんだ。
おれは確かに両親に愛されていたし、いろんな人からも恩を受けていたんだ。
だから、おれはおれ自身を大切にしていいんだ。
そう承認されたような気がしたよ。
もう憑き物が落ちたかのように、スウッと気分が晴れました。
これからは自分で自分にブレーキをかけてしまうことなく、自分の人生を変えていけると思うよ。
多分、成功法則本を読んだとしても、この状態には決してなれなかったと思う。
『鏡の法則』には似たようなことは書いてあるけど、だけど多分あれは「感動した!」と思ってしまうだけで、なかなか実践には結びつかないんだよな。おれも実際、父の生前にあの本を読んでいたけど、結局わだかまりを抱いたまま逝かせてしまったしな。
この練成会で日常から離れた場所に置かれたことで初めて真摯に取り組むことになったんだと思うし。
いつもと同じ日常を送ったり、成功法則本を読み返してばかりいても、結局のところ同じ結果しか出ない。
何かで悩んでいることがあるのなら、生長の家の門を叩いてみるのもいいんじゃないかと今のおれは思っているよ。