高校生の頃以来、20年近くホラー映画を観なくなっていた僕がまた観るようになったきっかけが『ドーン・オブ・ザ・デッド』という作品で、それは昔のとある映画のリメイク作品だという。


本来はオリジナルの方から観ていくべきなんだろうけど、昔の作品はそう入手性が言い訳じゃないからね。どうしても見つけやすいメイク作品の方から観ていくことになってしまうんだよね。それでもやっぱりオリジナルの方もみていくべきだろうと言うことで、今回は『ドーン・オブ・ザ・デッド』のオリジナル、『ゾンビ(というのは邦題で、こちらも原題は『DAWN OF THE DEAD』なんですけどね)』を観てみました。


テレビ局員のカップルと特殊工作員の男性二人がヘリコプターでゾンビにあふれた街から脱出し、郊外のショッピングモールに逃げ込む。そこに行くのが生前の習慣だったせいなのか、ゾンビもまたそこに大挙押し寄せていたが、何とか駆逐し、楽園を手に入れた4人。しかし、ゾンビに襲われたキズが悪化して、仲間の一人がゾンビ化し、やむなく殺害することになり、更にギャングと化した生き残りの人間達がショッピングモールを襲撃したことで、再びショッピングモールは地獄と化してしまう。ゾンビが多数入り込んできたのを利用して混戦に持ち込み、襲撃者の親玉を倒すものの、更に一人が犠牲となってしまい、拠点としてきた小部屋もゾンビに制圧され、遂にヘリで脱出をはかるしか無くなってしまう。ただ、燃料は既に残り少なく、希望無き脱出でしかない。一体何処まで行けるのか?安息の地はあるのか?希望が見えぬまま本編が終わる。


どうも途中の束の間の安息の部分が長すぎたし、仲間の中には脅威と戦う真摯さを持ち合わせずに、不必要な危険を招くような奴もいて、観ていて感情移入も同情もしにくかった。襲撃者の登場から一気に緊迫したけど、結局あの襲撃者達は何がしたかったのか?って感じになってしまった。


技術力が高くない中、様々な工夫で作り込み、インパクトの強い映像を創り出しているのは見事だけど、ドラマ性には疑問が残るかな。僕は、リメイク作品の『ドーン・オブ・ザ・デッド』の方ができが良かったように思えるよ。


昨今のゾンビ映画に登場するゾンビは恐ろしく俊敏で獰猛ですが、この映画に出てくるゾンビは実に動きが緩慢で、たくさん居ても強化ガラスを破ることもできないほど脆弱な存在なんですよね。だから、落ち着いて対処できれば決して恐くはない。むしろ余裕を持ってあしらえるし、顔面にパイをぶつけて笑いものにすることも可能だったりするんですよね。


でも、一つでも歯車が狂えば、たちまち恐ろしい脅威に変わる。いつの間にか背後に回られていたり、足を噛まれて動けなくなったり、照明が消えて目が見えなくなったり、それだけのことでね。


そうならない為には真摯さが必要だよね。相手が戦う意思を持ち続けている場合には何が起こっても不思議はないんだから、現状の優位さに酔って油断をしてはいけない。笑うんだったら、全てが終わったあとで笑えばいいんだ。戦っている最中の人間に、余裕の笑顔なんてものは不要だよ。


主人公達は、つかの間の安息を楽しむんじゃなく、もっと積極的にゾンビや生き残った人間達の襲撃に備えるべきだったよね。ショッピングモールの中だけじゃなく、外に集まってくるのもこまめに倒して、万が一どこかに穴が空いたときに大挙して侵入されることの無いようにしておくべきだった。他の人間の襲撃に対しても、いろいろと罠を仕掛けておくべきだったね。映像的には地味かもしれないけど、首の高さにピアノ線を張っておいて、うかつに足を踏み入れると首が落ちるようにしておくとか。


何というか、自分だけの利益を考えるのであれば、それ程多くのことをする必要もないかもしれないけど、それ故に後々大きな不利益を被る場合だってあるんだよね。


そうならない為にも、たとえ一時的には決して自分の得にならないことであっても、より多くのことをしておくべきなんじゃないだろうか。恐怖から目をそらして、束の間の安息に浸っていたって結局何の解決にもならないんだからね。


もっと恐怖と戦う術を、立ち向かう術を学びたかったのに、戦いにおいて真摯さに欠けたものがどうなるかを延々と見せ続けられただけで終わってしまったような気がする。


次は『テキサス・チェーンソー』でも観て、絶対的な恐怖に人間はどう抗うべきなのかを学ぶとしようか。