「SHOE DOG 靴にすべてを」 | Jiro's memorandum

Jiro's memorandum

泉治郎の備忘録 読書の感想や備忘録 ※ネタバレ注意
【経歴】 日本株アナリスト、投資銀行、ネットメディア経営企画、教育事業経営、人材アドバイザー、新聞社経営管理、トライアスリート

 

「SHOE DOG 靴にすべてを」(フィル・ナイト)

 

 

起業家の成功ストーリーにハズレ本なし。「映画を観終わったよう」という書評をどこかで見た記憶があるが、まさにそのような読後感だ。

自分自身もランナーなので(加えて最近、シューズを研究し始めたので)、ナイト氏はじめ登場人物たちの気持ちがよくわかり(本当に本当によくわかり)、読んでいて気持ちが入り込むことたびたび。走ることが心から好きな人たちだからこそ成し遂げることができた痛快成功ストーリーだ。

1962年当時、ランニングというのは、一般の人には全く人気のないスポーツだった(スポーツという認識すら持たれていなかった)。確かに、球技や格闘技やウィンタースポーツやマリンスポーツと比べて、こんなに単純で地味で面白みのないスポーツはないのではないだろうか。

一方、始めるのにここまでハードルの低いスポーツもない。そして誰でも(程度の差はあれ)爽快感や達成感を得ることができる。1960年代当時の人々には想像できなかっただろうが、世の中が豊かになり、健康意識やレジャーへの関心が高まるにつれて、ランニングが多くの人々を魅了することになるのは必然だったのではないだろうか。

もちろん、ナイト氏、バウワーマン氏、その他多くのシュードッグたちの信念と努力がなければナイキの成功はなかった。ただ、環境の追い風にうまく乗った面はあると思う。そしてまた、その追い風をつくり出したのもシュードッグたちの功績であるともいえる。

 

 

 

以下、備忘

 

 

 1962

 

 

私は世界に足跡を残したかった。
私は勝ちたかった。
いや、そうじゃない。とにかく負けたくなかったのだ。

--

私は自分の人生もスポーツのようでありたいと思った。

--

いい選手にはなれても、偉大とまではいかなかった。(中略)アスリートになれなくても、アスリートと同じような気分を感じる方法はないだろうか。あるいは、それに近い気分を味わえるほど仕事を楽しむ方法はないだろうか。

--

私は走ることが好きだが、馬鹿げているといえば、これほど馬鹿げたものもないだろう。ハードだし、苦痛やリスクを伴う。見返りは少ないし、何も保障されない。楕円形のトラックや誰もいない道路を走ったりしても、目的地は存在しない。少なくともその努力にきちんと報いるものはない。走る行為そのものがゴールであり、ゴールラインなどない。それを決めるのは自分自身だ。走る行為から得られる喜びや見返りは、すべて自分の中に見出さなければならない。すべては自分の中でそれらをどう形作り、どう自分に納得させるか、なのだ。
ランナーなら誰もがこのことを知っている。何マイルも何マイルも走りまくっても、なぜそうするのかは自分でもわからない。ゴールを目指して走り、快感を追い求めているのだと自分に言い聞かせるが、実は止まるのが怖くて走っているのだ。
1962年のあの日の朝、私は自分にこう言い聞かせた。馬鹿げたアイディアだと言いたい連中には、そう言わせておけ・・・・・・走り続けろ。立ち止まるな。目標に到達するまで、止まることなど考えるな。“そこ”がどこにあるのかも考えるな。何が起ころうと立ち止まるな。

 

 

 1964

 

 

私は商売が突然軌道に乗った理由について考えた。百科事典は売れなかったし、軽蔑もしていた。ミューチュアルファンドの売り込みはまだマシだったが、内心では夢も希望もなかった。シューズの販売はなぜそれらと違ったのだろうか。セールスではなかったからだ。私は走ることを信じていた。みんなが毎日数マイルを走れば、世の中はもっと良くなると思っていたし、このシューズを履けば走りはもっと良くなると思っていた。この私の信念を理解してくれた人たちが、この思いを共有したいと思ったのだ。
信念だ。信念こそは揺るがない。

 

 

 1965

 

 

実際のところ、1965年当時、ランニングはスポーツですらなかった。(中略)3マイルを走るなど、変わり者がおそらくよこしまなエネルギーを発散させるためにやっていることだった。喜びを求めて走る、運動のために走る、エンドルフィンを増やすために走る、より良くより長く生きるために走るなど、誰も聞いたことがなかった。

--

プライス・ウォーターハウスに就職した。自分の気持ちを押し殺して正規の会計士になったのだ。

--

「本を書くですって?」
「ジョギングの本だ」と彼はぶっきらぼうに言った。
バウワーマンは、エリートのオリンピック選手だけがアスリートだとみんなが誤解していると常にこぼしていた。だが、彼が言うには誰もがアスリートなのだ。肉体があればそれでアスリートであるという持論を、彼はさらに多くの人に広めようとしていた

 

 

 1967

 

 

どういうわけかこれが爆発的な人気を呼んだ。100万部も売れて、ブームを起こし、“ランニング”という言葉の意味を変えた。程なくして、バウワーマンとその本のおかげで、ランニングは奇行ではなくなった。もはやカルトでもない。むしろ、クールに近いものになったのではないか?

 

 

 1968

 

 

週に6日はプライス・ウォーターハウスに勤務し、早朝、夜中、週末、休日をブルーリボンに充てていた。

 

 

 1969

 

 

バウワーマンがメキシコシティから凱旋してきた。彼はアメリカのオリンピックチームのアシスタントコーチを務め、どのチーム、国よりも数多くの金メダルをもたらすのに多大な貢献を果たした。私のパートナーは名声を響き渡らせるにとどまらず、伝説になったのだ。

 

 

 1970

 

 

オニツカはブルーリボンと手を切ることを検討していて、キタミがアメリカの複数の販売店に接触しているらしい。

 

 

 1971

 

 

翼みたいだと1人が言った。
風が吹いてくるみたいだともう1人が言った。
ランナーが走った跡みたいでもある。
私たち全員がこれが斬新で、しかもなぜか古代を彷彿とさせると納得した。つまり時代を超越しているのだ。
何時間もかけて取り組んでくれたキャロラインに、私たちは心から感謝して35ドルの小切手を渡して見送った。
彼女が出て行ってから私たちは、座ったままこのロゴを見つめた。私たちが選んだロゴ、オニツカとの契約を無視してできたロゴだ。「目を引くね」とジョンソンが言うと、ウッデルも同意した。私は顔をしかめて、頬を引っかいた。「君たちの方が僕より気に入っているみたいだな。だがまあ、とりあえず時間がないから、これにしよう」
「君は気に入っていないのか?」とウッデル。
私はため息をついた。「あまりね。これから気に入るかも」

--

(日商岩井の)スメラギは世界中の工場について情報を持っていた。最近コンサルタントを雇ったそうで、信頼のおける靴の魔術師であり、(中略)正真正銘のシュードッグだそうだ。

シュードッグとは靴の製造、販売、購入、デザインなどすべてに身を捧げる人間のことだ。靴の商売に長く関わり懸命に身を捧げ、靴以外のことは何も考えず何も話さない。そんな人間同士が、互いにそう呼び合っている。熱中の域を越し、病的と言えるほどインソール、アウターソール、ライニング、リベット、バンプのことばかり考えている人たちだ。

 

 

 1975

 

 

イトーは、スメラギが単独で、私にも内緒で、自らの意志でインボイスを隠していたことを受け入れていた。そして私が黙って工場を運営していたことなど、罪を許してくれた。「野心に免じて目をつぶりましょう」と。

 

 

 1976

 

 

バウワーマンが開発したワッフルトレーナーへの需要が急激に増していた。

シューズにおける美学の革命だった。このデザインに魅了されて新たに数十万人もの顧客がナイキを求めるようになったが、機能も人気に負けていない。市場のどの製品よりも摩擦力と反発力が優れていた。
1967年にこのシューズが一般的な装身具から芸術品へと進化するのを目の当たりにして、私は思った。みんながこのシューズを履いて学校に通うようになるかもしれないと。
オフィスにも。
ショッピングにも。
そして毎日の生活でも。

--

(オリンピック予選のヘイワード・フィールドにて)
後ろで誰かが「すげえ、ナイキがアディダスを食ってるぜ」と言うのが聞こえた。この瞬間こそが、その週末、その年のハイライトだったかもしれない。

--

白黒はっきりさせるべきは“株式上場”の問題だ。(中略)成長を維持できなければ、生き残れない。不安、リスク、マイナス面を差し引いても、株式上場は成功を維持する最善の方法ということで、一致した

 

 

 1980 株式公開

 

 

1970年代後半の私はまさに奮闘していた。私は勝つとはどういうことかを見つめ直し、勝つこととは、負けずに生き延びる以上のことだと知った。

--

終わったのではない。まだまだだ。第1章は終わったと私は自分に言い聞かせた。だが、まだ第1章だ。

 

 

 

 

 

懸命に働けば働くほど、道は開ける。(中略)みんなに言いたい。自分を信じろ。そして信念を貫けと。他人が決める信念ではない。自分で決める信念だ。心の中でこうと決めたことに対して信念を貫くのだ。

 

 

 

 

 

 

 
 
 
余談
 
年1回、フルマラソンを走ることにしている。今年は3月24日開催の佐倉マラソンに出場。シューズは、ワークマンのオーバードライブと最後まで迷った結果、アシックスのマジックスピード3で出場。サブ3.5を目指して臨んだがタイムは3時間36分10秒、20年前の自己ベストにも6秒及ばず。前半、慎重になりすぎたか。

ちなみに昨年はナイキのズームフライ5で板橋シティマラソンに参戦。記録3時間40分。

 

 

 

 


日々のトレーニングは、ナイキのズームペガサス39、ワークマンのハイバウンスとハイバウンス・オーバードライブを愛用。
マジックスピード3はゴム紐に変えトライアスロン仕様に。6月2日の彩の国トライアスロンで履く予定。

 

 

 

 

ランニングアプリはナイキを愛用。(秀逸!)