それは、気持ち。
それ以外に何があるというのだろう?
 
分かり合えない、つらさ。
 
 
介護に必要なテクニックは、学んでケースに合わせて様々に応用しカスタマイズできる。
そうすれば時短できる。
知識と実践、実験、検証していけば、案外簡単なもの。
そこに人の気持ちが入るから、ややこしくなるし、問題が起きる。
 
人の気持ちは、テクニックだけではどうにもならない。
環境の不特定多数の要因で気持ちは刻々と変化する。
何かに囚われた人の気持ちは、なかなか切り離すことはできない。
蟻地獄にのみ込まれるように、その人を中心に周りものみ込まれがちだ。
 
介護するというより、ともに生活する私にとって必要なのは、常に穏やかでご機嫌な自分でい続けること。
だがそれがいちばん難しかった。
どうやったら、自分をコントロールできるのだろう?
 
ここで介護者が介護される人をコントロールしようと勘違いしてはいけない。
一瞬コントロールできた気がしても、それはコントロールできたのではなく、たまたまそういう条件が整った奇跡みたいなものだから。
 
話を戻すと。
自分をコントロールするというよりは、いつでも今を楽しみ喜ぶ自分でいるようにする。
視点の持ち方、視野の広さ、ユーモアのセンス、そういうところを鍛える。
 
そうはいっても、ネガティブな気持ちが悪いというわけではない。
そんな自分を否定しなくていい。
というより、否定してはいけない。
自分の味方は常に自分なのだから。
 
「そう思っちゃうよね!そう感じて当たり前だよ!頑張ってるんだから!」
まずは認めてほめる。
 
私は私を常に見ているし、私が考えていることを知っている。
そこに気づいて、まず自分で自分を労えるのが大人というもの。
 
私は40代前半までは精神的に子どもだった。
自分は大人だと思っていたけれど、思っていただけで(笑)
今振り返れば、認知症の親に対してちっとも大人な対応ができていなかった。
たとえ親が認知症になって症状が進んでも、やはり自分は親の子であるという甘えが、大きな甘えがあった。(反省、汗)
 
それは駄々っ子みたいに、
「なんでわたしばっかり~」
「なんでいつもこうなっちゃうの~」
「もう、いーやーだーーーー」
をやってしまって、自分をさらに自分で苦しめた。
そんな自分に追い込まれた。(←ここに気づくことが大事)
今思えばアホだけれども、当時の私は被害者意識でいっぱいで気づきもしなかった。
 
 
良き時代。
時代の便利を活用し、自分との付き合い方を調べ実践できる。
そういうことを教えてくれる人がたくさんいる。
 
自分をご機嫌にしていれば、それで十分今を楽しむ素地ができ、そこから創意工夫でその人なりのやり方を見つけだせる。
介護と気負わず、日常生活をいかに楽しむか工夫できる。
 

つらい、つらいと頭で心で叫び続けることほど愚かなことはない。

「ではどうする?」

「どうしたら私はラクになるのか?」

自分への問いかけが大事。

自分に必要な答えは自分が知っているのだ。

知らないふりして、できないを演じ続けることで、私は何を得ただろうか?

憐れみと苦しみだけだ。

常にそういう風に考えれば、そういう状況は深刻化するばかり。

「どうすればここから抜け出せるのか?」

今すぐできなくても、「絶対やる!」その気持ちを持ち続けることをあきらめない。

そうして「どうすれば?」を調べ学び実践する。

諦めずに粘り続けて、道がひらき、母を見送ることができた。

 

今自分はどんな気持ちでいるのか?

自分と話し合い続けることが何より大事。

自分の気持ちを大切にすれば、つらさは学びになり、しあわせにつながっていく。

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松元佳子