施設で暮らす認知症両親の面会、今回も三姉妹で訪れた。
認知症両親に対する私たち三姉妹の想いを凝縮させて。
コロナ禍、それぞれに制約が多い。
そんな現在、両親にとって生きるとはどういうことだろうか?
両親は家族を大切にしていて、私たち三姉妹と水入らずで過ごすとき、リラックスして楽しそうで、嬉しそうだ。
両親がホッとして安心し、両親の心身が緩むことを私は知っている。
今やそのちょっとした時間は、おそらく両親にとって幸せを感じる最大の瞬間だと思う。
だから。
両親の緊張した面持ちが一瞬でも解け、笑顔になることが、今の私たちの最大の望み。
そうしてできれば、手を握ったり、ハグしたい。
家族のぬくもりというのは、いつでも格別だから。
そう思いながらの面会。
面会はガラスの扉越し。両親の体温を感じることはできない。
両親とも車椅子に座り、スタッフが一人ずつついて車椅子を押して連れてきたくださった。
母は、前回の面会よりさらに痩せ、カラダも表情も硬くこわばって見えた。
私はその一瞬で、母の変化にショックを受け、たぶん五感のほとんどを最小のメモリまで一瞬で落とした気がする。
母の大きな悲しみや絶望が私に伝わり、それとともに何とも言い難い無力感が私を襲い、大きな悲しみが湧きだし、その大きさゆえに、感じないように防衛反応のように五感の感度を下げた感じだ。
父は、相変わらずのように見えて、父もまた閉ざされた空間で暮らすことに無力感と悲しみを抱いているようだった。
言葉にはしないけれど、今の生活に身をゆだねることをよしとしていても、やはりそれ以外の希望を自ら作り出せないことへの絶望感はぬぐえないのだろう。
誰を恨むわけでなく、むしろ感謝の気持ちと言葉を発しても、その裏に違った気持ちがあるのは自然なことだ。そんな父の切なさが伝わって、またさらに悲しくなる。
そうはいっても面会時間は少ない。
スタッフに見守られながらの面会。
貴重な時間。
この一瞬に両親に伝えたいこと、話したいことを、できるだけポジティブに自分らしく、口に、表情に出そう。
三姉妹それぞれ、悲しみを抑え、笑顔で面白おかしくしゃべったと思う。
施設からの帰り。
妹たちと母の変化を話し込んだ。
ショックと悲しみ。
そうして本当は、
自分たちは両親とどうありたいんだろうか?望むことはなんだろうか?
と話ながら、
自分たちが「両親とのたくさんのことをあきらめている」ことに気づいた。
「あきらめたら終わり」なのに。
「どんなときも希望を持つことが生きること」なのに。
例え叶いそうもない希望だとしても、口に出して、言うことが大切だ。
まずは独り言、家族、関係者へと。
私たちの願いは、両親と触れ合えること。
母を暖かく抱きしめること。
「ありがとう」
と
「愛している」
ことを何度でも伝えることだ。
それはまず、帰り際施設スタッフの方々にしゃべった。
よしよし、素晴らしいぞ、私!笑
帰りの車中で妹たちともしゃべりあった。
これでこそ三姉妹!笑笑笑
その後、三姉妹らしい楽しみを味わった。
スーパーで食料を調達し、実家で食事とお茶。
意気消沈したそれぞれの気持ちを再び、しゃべりつくし、聞き、今後について話す。
その後は、日常のたわいもないおしゃべり。
その間に私は、両親の私への期待「お姉ちゃんらしさ」を発揮すべく(笑)、妹たちと自分のために、美味しいおかず作り。
妹たちの頑張りをねぎらう。
家族のだんらんの場を愛情豊かに作る。
それが喜び。
家族のありがたみをかみしめ、いくつになっても両親の背中に学び、精神的に成長し続けることを誓う。
そう「あきらめたら終わり」だ。
生きている限り魂を磨き続ける。
それがお互いのあるべき姿なのだろう。
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松元佳子
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