タイトルの助けを求めない人とは、若年性認知症の症状があらわれたころの母 。

私は何とかして母を助けたかった。
母のために精一杯尽くしたかった。

けれど母は、自分の変化を認めなかった。
受け入れがたかったのだと思う。

母にしてみれば、
まさか、そんなバカな
そんなはずはない、と。

私は、母に周りを頼って欲しかった。
悔しくて残念で悲しくて
あんなにしっかりものの母が徐々に壊れていくのを見ているのはつらかった。

母が自分の病気、若年性アルツハイマーを受け入れたのは、症状が出てから10年ほどたち、日常生活に介助が必要になった頃だった。
母の認知機能が低下して初めて、母を本格的にサポートすることができるようになった。

それまで母への接し方は、母のプライドを傷つけないよう細心の注意を払って、「助ける、サポートする」のではなく、これまで通り母の手伝いをさせてもらうという姿勢だった。

とはいえその頃の私は、病気を受け入れない母や認めない父や妹三女へのひどい憤りが胸底でマグマのように沸いていた。

父は三姉妹が何を言っても「仕方がない」と言い、母にイライラを募らせながら母のプライドをそのまま受け入れていた。

当時の私にとってその父の態度は信じられなかったし、父が身勝手に思えたものだ。
私は事あるごとに父を責め立てていた。
若く青かったし、何もわかっていなかったなと今となっては反省しきりな部分。

「今となっては」といえば、母のように自分の現状を受け入れられない人をどうにかすることは不可能だとわかる。

その時私はどうすれば良かったのか?
今ならわかる。
自分を助ければ良かったのだ。

私は母に感じる私の痛みを掘り下げ、その本質を知ること。
母に感じる痛みは、私の痛み。
母は私ではなく、私は母ではない。
その明らかな事実を受け止め、私が私のためにできることをする。
問題は母にあるのではなく、私自身が問題だと思うことの本質が何かということを見つけ出し、自分を理解すること。

母のプライドの高さは、私のプライドの高さでもあった。それは育った環境に作られた(洗脳されたとも言える)自分。

受け入れがたいのも自分。
私の自慢の母が、まさかそんな。
 
私が素直に感情を伝えられるようになるにつれ、母の表情や目の色は穏やかになっていった。

母も私も不安や恐れでお互いのネガティブな感情を素直に伝えあえていなかった。
そこが最大のポイントだった。
「何もかもうまくいかない」
と不安や恐れで母も私たち家族も信じ込んでいた。
そのパワーはすさまじかった、今思えば。

様々に知識を得、日々の試行錯誤でつかみとった知恵で、少しずつ前向きに、お互いを尊重することを学び、できることから少しずつ実践。

最終的に自分がエゴを手放せば(相手を操作=コントロールしたい思い)、両親との関係がスムーズになることを知った。
 
まずは自分をととのえる。
目の前に起こるどんなことも、そういう姿勢で取り組む。
すると流れに身を任せることが恐くなくなり、なるようになると自分も相手も信頼できるようになるのだろうなと感じる。
感じるけれども、なかなかに困難(笑)
ここもひとつひとつ日々丁寧にありたいところ。

自分を知り、自分に集中することに取り組む。
というわけで、ここ2年は写真を撮ることに夢中だ。
私は私の事をもっとよく知りたい。
私らしく生きるために。
私にできることをみがくために。

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松元佳子