1年に2回田舎の説教所で集いがある。
春の報恩講、秋の永代経。
父の代理ではあるが、実は父は出席したことがない。
祖父母から叔父(父の弟)を通じて私たち三姉妹が引き継いだ。
今回は、私と妹三女と出席。
 
田舎にはほとんど縁のない私たち三姉妹。
しかしそこに参加するたびに、ご縁という目には見えない不思議な働きを目の当たりにする。
 
それは、
説教所の面倒見の良い総代さんが母の同級生であることであったり、
祖父母の特に祖母のこれまでの貢献してきたことのおかげであったり、
両親の同級生や知り合いの方々の優しさであったり、
祖父母や両親や叔父叔母、そこで暮らしていた血縁者を介して繋がるご縁。
 
私自身はこのような関係を忌み嫌う時期もあった。
がそれは物事を陰陽の視点でみれば、陰の側面であり、今私が見てあたたかみを感じているのは、陽の側面。
このような経験ができることに感謝している。
何事も中庸を心得ることが大事なのだな。
 
さて今回は報恩講に加えて。
現住職と前住職の交代一連の行事を撮影したDVDを門徒一同で視聴した。
現住職と前住職と前住職の奥様も出席。
この地域のコミュニティとお寺と人々の繋がりを垣間見、幸せでありがたい気持ちがこみあげる。
それは私自身が人とどのように関わりたいのかや関わらせていただく気持ちをようやく理解できるようになってきたからなのだろうと感じた。
 
今日のご住職のお話
困ったとき、苦しいとき、私たちは神仏に願いを、幸福を、祈るものである。
しかし、私たちひとりひとりは、神仏に願われて生まれてきた存在。
御仏の教えを要として日々励みましょう。
 
お話を聞きながら、
物事に対しても自他に対しても、素直であること
自分という存在を光のように大切に扱い生きること
すでにあるものの恵みを受け取る器を大きくすること
など、自分という人間の存在の本質を思う。
 
同じものを見ていても、そこに見ているものは、それぞれに違う。
その違いを認め、尊ぶ気持ちを育て、違いに味わう痛みや苦しみの感情を丁寧に掘り出し癒していく。このことが自分という存在に必要な日々の学び。
ありのままにあるというのは簡単なようで実に難しい。
素直であろう。
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松元佳子