認知症両親が施設で暮らすようになってから、
なんとなく月に1回は両親の実家のお墓参りに行くようになりました。
 
両親の実家は離れてはいるものの、
同じ校区にあります。
祖父の代で海岸近くに別々にあったお墓は、
同じお寺の納骨堂に移りました。
 
できればお仏壇に手を合わせるのがいいのでしょうが、
そうなると心理的時間的な負担が大きくなります。
 
地元では毎日のようにお墓参りする風習がありました。
祖父母の家では、朝昼夕とお仏壇に手を合わせました。
わたしが子どものころは、
毎朝お寺の本堂に檀家が集まって、
読経がありその後お説教があったような?
 
そういう習慣は知らずと身についているもので、
お墓参りをしないと気持ち悪いような気がしてくるのです。
 
それとは別に、
自分が年を重ねて死を意識するようになると、
生きていることが有り難いことだなぁと実感するのです。
 
認知症両親の在宅介護が大変な修羅場のとき、
両親の母たち(わたしの祖母たち)が相次いで亡くなりました。
 
その大変な修羅場の中でさらに。
祖母のお葬式から四十九日まで七日ごとの供養に、
父や母と一緒に参加しました。
どうしてそこまでできたのか?
今思えば不思議なのですが、
「見守られている安堵を知るためだったのかもしれない」
と思ったりします。
 
命は親から子へと途方もない年月を受け継がれてきたもの。
その方々に見守られているから大丈夫。
それを教えてもらったのかも。
 
そんなことを想うと、
今生きていることは有り難いことだし、
目の前の出来事に精一杯尽くすことや、
めいっぱい楽しいことをして喜ぶことは、
生きている実感を得ることなんだろうと思います。
 
月に一度、
お墓参りの日に、
お供えするお酒やお茶と
おつまみとお菓子を故人に思いを馳せながら選ぶ。
それをお供えして、
近況報告やお話しをして手を合わせお念仏を唱える。
こころ穏やかに安まり、清々しい。
 
このお墓参りを両親に報告する。
母が「よかったね~」といい、
父が「ありがとう」という。
微笑み合う。
なんて平和なんだ!(笑)
 
何もかもがギリギリで、
親を殺すか自分が死ぬか
なんてことを考えていた時期に、
祖母たちを見送っていた。
 
人って不思議なもので。
そのギリギリな死を想ったとき、
わたしは何をしたかったか?
と思い将来を考えた。
そのときに始めたことが今につながっている。
家族を通して一番醜い自分を知ったことを思い出す。
 
この頃はお墓参りが好き。
愛のみなもと。
愛は憎しみなど表裏一体。
すべてが含まれる人の命の最後のカタチが残るところ。