認知症両親の寿命と在宅介護や施設介護のはざまで揺れ動く心。
 
それはなぜか?
常識や道徳観や生活環境や親族関係や親子関係に惑わされるから。 
 
現実的に考えると答えは導き出せる。
経済的な問題。
現実的に命に値段はある。
 
とは言うものの。
その命に見合う値段は?
その長らえる命にどんな価値がある?
それだけの蓄えが両親にあるのか?
私は身銭を切るのか?
などなど。
私の両親の寿命を決めるのはもはや私の役割。
もちろん聞ける範囲や聞き方はあると思っているので、その都度聞く口も耳もある。
 
なぜ命の値段だの価値だの考えなければならないのか?
私の両親が自分の生き方死に方を私に伝えていないということ。
父は、自分の死や家族それぞれの死について考えることなど受け入れられないし、そんな残酷なことは自分で決められないと語っていた。しかもそんなことを聞く私は父に「人の死について考えるなんて信じられないしあり得ない」と怒られた。
母は、自身の病気若年性アルツハイマーを受け入れられないまま症状が進行してしまったので聞けずじまい。
 
「わたし」と「両親それぞれ」、真摯に向き合ってきた。
人はそれぞれ。
親といっても違う人間。
それを踏まえて。
実際手続き上(介護保険制度、介護施設の身元引受人)役割として自分が判断しなければならない。
事前に、妹たちに確認は必要。
一緒に頑張って踏ん張って両親を支えてきたのだから。
考慮すべきは、一緒にやってきた人たち。
それ以外の口だけの人の意見を聞く気は私にはない。
こういうことは日ごろ考えておかないと、突然その日がやってくるものだ。
 
そして悩みを増長する最大の原因は、医療。
どこまでが「自然な老い」なのか?
どこからが「病気で治療が必要」なのか?
そこに悩む。
両親それぞれにとって「生きている」実感はどこまでなのか?
 
なかなかこたえは見つからない。
しかし、常に考えることである。
自分の立場で、両親それぞれの立場で。
 
結論。
両親には、ぽっくり自然に逝って欲しい。
お互いこれ以上の痛みはいらないから。
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松元佳子
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