全介助が必要なアルツハイマー型認知症の母。
そんな母でも、いつも母らしく在るんだと気づけたのは、私にとって幸いだ。
「わたしが居なくちゃ母は生きることができない」
「わたしが居なくちゃ父は何もできない」
そう思うことは思い上がりだ。
 
人は死ぬときまでは、なんとか自力で生きているに違いない。
そしてそれがその人のありのままで、その人の生き方で死に方なのだ。
 
なぜそんなことを思ったのかというと。
母が前の施設で私や母にとってはひどい扱いを受けたと感じていたとき、母は私にそのことをからだの症状で、わーわーと話をすることで、机をたたいたり足で床を蹴って、伝えていたのに気づいていた。
 ただ、気づいていたけれども怒りややるせないという感情に支配されて、「じゃぁどうすればいいのか?」という次のステップへ行動に移すことがすぐにできなかった。その理由もまた感情に支配されていて、「すぐに次の施設が見つかるはずがない。」「またあの時の苦労をするのは私が耐えられない。」とできない理由を並べて、行動するための思考を遮っていた。
 
父がリハビリ病棟から退院することになって、母も一緒に施設を移ることができた。
そうして1年半あまりたった現在、父も母も自宅で暮らしていたときより元気になった。
それなりに二人の想いが行き来している様子だ。
二人はそれぞれ今を生きている。
 
いつも二人にとって理想の状態ではないけれども、あの頃(父が入院していて、母の体調がおかしくなっていた頃)より、健康だし自分の人生を生きてる人の目をしている。あの頃の二人は、死んだような目をしたいたから。
 
あの頃と今と一体何が違うのか?
 
それは感情と思考を切り離して行動していること。
ただそれは、感情に流されないということであって、感情はいつもとても大切にしている。
感情こそが気づきや違和感を与えてくれるものだから。
 
そして自分を信頼し、両親を信頼し、施設の人たちを信頼していること。
それぞれの信頼が揺るがないように、何かに気づいたら行動し整えること。
 
これを続けていれば、たとえ自分がそばに居なくても、父も母も少しはそれぞれらしくそのままに生きていることができる。そう信じることができる。
自分で何もできなくてもその人らしさは失われるものじゃない。
死んでしまうその時までその人はその人なのだ。
 
今週は、両親をたずねてくれた叔母といとこと6人で楽しく過ごす♪
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松元佳子
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