認知症の両親とともに、両親の代理で、葬儀に出席する機会を経験するたびに思うことがあります。
ひとつめ。
両親のサポートや代理だというのに、両親と同じ役割を求められること。
特に金銭的に。
それは、代理だから当然だといわれれば、仕方ないとは思います。
でも、母が若年性アルツハイマーになって20年、父も脳血管性認知症になって10年弱、私は両親の介護のキーパーソンの役割に真剣に取り組み仕事もしていない。夫は私の両親の介護のために、転居転職を2度もしています。
金銭的には苦しい暮らしです。
それで両親の生活の管理もしており、家族の幸せを考えサポートするのは、なかなか大変です。ちゃんと足並みをそろえて金一封を包みますけども!
「来てくれるだけでいいよ。」
「来なくても大丈夫だよ!」
とはならないことにがっかり。
本音がすぎます(笑)
両親も一緒に出席となると
自分たちと両親と両方の準備、
両親にストレスがかかりすぎないようスケジュールの詳細な段取り、
姉妹のスケジュール調整と連携の確認、
その後の両親と妹たちのストレスケア、
日常生活と同時進行です。
繊細にケアしているので私には恐ろしいほどの負担増。
まあ完全にあらゆる自己犠牲でやっちゃうしかないわけですけれども(笑)
完全なる僻みで書いているひとつめ(笑)
ふたつめ。
超高齢化社会の日本で、冠婚葬祭とくに葬儀に出席する若年層の少ないこと。
それこそ、親が子どもは来なくていいとでもいっているのでしょうが、それは子どもの貴重な経験のチャンスを奪っていると私は思うようになりました。
特に都会に住む地方出身者は、帰省するのに旅費がかかるので、こういう機会に自腹を切ってまで行く必要などないと思うのがふつうでしょう。
ですが、祖先の宗教や田舎の人間関係や習わしや親族のつながり、遺体を見る機会、火葬場での儀式、その後の法要。
人が死ぬということを、先祖代々どのように葬って、こころの傷を癒していくのか?
ただの儀式としての納骨までの習慣が、人の心と大きくかかわっているということ。
体験してみなければ、知り得ないこともたくさんある。
それは経験していないと容赦なく襲って、心の病となる。
いきなり家族の死を体験することがどんなに非情で過酷な体験かを間近で何度も経験して思うのです。
親が子に教えることができるのは、死への心構え。
それがあって、日常の喜びがさらに大きく価値あるものになると知るのではないかと。
思いやり、相手の立場になって考える、そんな心を養う場は、本来家庭であったはず。
認知症の両親代理やサポートという役割は、私に人生の豊かさは様々な経験を積極的にしていくことだと教えてくれています。自分の役割から逃げなくて本当に良かった。いつ死んでも後悔はありません。(笑)
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松元佳子
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